かじみちぱらだいす
宇宙から帰ってきました
未知子が宇宙から地球に帰ってきて神原名医紹介所にもどると、すでにベンケーシーは元気になっていた。急いで帰ってきた意味ないじゃん、であるが、元気になったのは大変喜ばしいことである。
そして、未知子は今、加地の家にいる。
金に汚いと言われているだけあって金に余裕があるのだろう、加地はなかなかいいマンションにお住まいだ。
ただし、それほど贅沢な暮らしはしていない。貯金が趣味なのかと思っていたが、ノーベル平和賞を受賞した特定非営利活動法人からの手紙をこの部屋で見つけ、患者のまんじゅうはそこに行っているらしいことがわかった。あのとき、未知子がからかうと、加地はあるところからもらって無くて困っているところに送ってるだけだと決まり悪そうに答えた。基本的に加地は素直じゃない。
その加地はソファに腰かけ暗い顔をしている。
「うちの病院の総長、また変わるらしい」
うちの病院とは国立高度医療センターのことだ。
「ふーん」
加地の隣に腰かけている未知子は適当な相づちを打った。
総長が天堂でなくなってから未知子は国立高度医療センターとは契約していないので他人事だ。
「もともと天堂先生が総長辞めるってことで、取り急ぎって感じで総長になったひとだからなぁ……」
「上のほうでもめてるわけね」
「ああ」
「あたしそーゆーのぜんっぜん興味ない」
「知ってる」
はぁ、と加地はため息をついた。
「問題は、次の総長として海老名部長が有力視されてるってことだ」
「え」
未知子は驚く。
「いや、あのひとじゃダメでしょう」
「……根はいいひとなんだけどな」
「頼りなさすぎ!」
根がいいというのは、まあ、認めてもいい。けれども、海老名はトップに立つよりも、トップの忠犬になるタイプだ。上の顔色をうかがい、褒められれば大喜びするし、その意向には逆らえない。そうやって逆らわないようにしていたら、棚ぼた式に今の地位まで来た。いろいろあって胃は痛めていそうだが、運に恵まれていたともいえる。
あの海老名がトップ。
かつて天堂が座っている席に海老名が座っている姿を未知子は想像した。
うわあ、大変。そう思った。
「それで、海老名部長が総長になったら、戦略統合外科部長のポストが空く。そのポストが俺に回ってきそうなんだ」
「嫌なわけ?」
現在の加地の地位、そして実力から言ってとうぜんの配置だろう。出世だ。しかし、加地は浮かない表情をしている。
「外科部長になると、管理職の仕事が増えて手術する機会が減る」
「それは嫌ね」
「あのな、言っておくが、手術バカのおまえと同じ理由じゃないからな」
「じゃあ、手術する機会が減って、なにが嫌なのよ?」
未知子が問うと、加地は一瞬黙った。
「……患者からまんじゅうもらう機会も減るだろ」
「ふーん」
どうやら素直ではない回答らしい。
「じゃあ、部長の権限でまんじゅうをたくさんもらえそうな患者を自分の担当にすれば?」
「……」
ついに加地は黙り込んだ。
まったくもって素直じゃない。
帝都医科大学付属第三病院で出会ったとき、加地は講師だった。教授になる気はさらさらない、そう本人が言ったのを未知子は聞いた。あれは、論文を書かなければ医学者としての将来はないと言われたことに対しての加地の返事だった。
同じ時期に、加地が高校の同級生である一日に数億動かしているという外資のファンドマネージャーについて話しているのも聞いた。何年かまえの同窓会であいつにバカにされた。おまえがどんなに一生懸命勉強しても、どんなに手術の腕を磨いても、加地秀樹、おまえの年収は俺の五秒、と。
そうやってバカにしたというのは、むしろその同級生が加地に対してコンプレックスを抱いていたということだろうと未知子は思うのだが。
それはともかくとして、その同級生の眼には加地が一生懸命勉強しているように映っていたということだ。そして、そんなふうにバカにされても、そういう生き方を続けていたということだ。
加地が金に汚いのは自他ともに認めるところである。
だが、金めあてを隠れ蓑(みの)のようにして、加地はたくさん手術をしてきている。出世のための論文を書かずに手術をして、オペの腕を磨いている。
未知子は手術中に加地に対してボケとけなしたことが二度あった。プライドの高い加地だが、二回とも、根に持たなかった。それは、未知子の言い分が正しくて、患者のためになることだと判断したからだろう。
加地の同級生の手術をしたとき、未知子は加地に腹腔鏡手術をしてもらうために途中でやっぱり無理だと言い出した。
あのとき。
馬鹿野郎! オペを途中で投げ出すなんて、おまえそれでも外科医か!?
そう加地に怒鳴りつけられた。
素直じゃない加地が他人に見せないようにしている芯に、ほんの一瞬、触れた気がした。
「……宇宙に行くのに使っちゃったからいつになるかわからないけど」
未知子は軽く笑って言う。
「またオペ代がたーっぷり貯(た)まったら晶さんが大門未知子外科病院建ててくれるらしいから、そのときは医者として雇ってあげて、たーっぷりオペさせてあげる」
「……それはないな」
「なんでよ」
「それは、そのオペ代が貯まってるころには」
加地は続けようとして、けれども言うのを一瞬ためらい、それから口を開く。
「かっ、加地未知子になってるからだ!」
「あー! 噛んだ! それも、一番大(だい)事(じ)なところで噛みましたー!」
未知子は加地を指さして、からかう。
加地は勢いよく顔をそむけた。
「……どうせ俺はカッコ良くねぇよ」
ボソッと言った。苦々しい顔をしている。よっぽど恥ずかしいらしい。
それを聞いて、未知子は思い出した。
師匠である晶の容体が急変したとき、未知子は日本医療産業機構理事会に出席していた、いや、出席させられていた。あのとき、未知子は晶が国立高度医療センターからホスピスに移ったと思っていた。
そして、未知子が医師雇用契約書へのサインを拒否して、会場から出て階段を降りていると、原が階段を駆けあがってきて、晶の容体が急変したことを未知子に知らせた。
原からすぐに病院にもどってくださいと言われて、未知子は一瞬黙った。晶がホスピスにいると思っていたのは、そう白木看護師長に言われたからだった。つまり自分は欺(だま)されていたのだ。それがわかって、やはりショックで、一瞬言葉を失ってしまった。
晶の手術が終わって、心の余裕ができてから、その件について看護師長から謝られた。
ホスピスに行ったと嘘をついたのは、患者である晶の希望であり、その希望を聞いた担当医の天堂からの指示だった。
白木看護師長は天堂を敬愛している。それも影響しただろうが、それよりも、なによりも、患者本人の希望に従おうとしたのだろう。
けれども。
晶の容体が急変し、その身体をストレッチャーで病室から運んでいる途中の廊下で駆けつけてきた加地は看護師に未知子がどこにいるのか聞き、聞かれた看護師は加地に対して答えずに白木看護師長に指示を仰(あお)いだ。
白木看護師長は迷った。
天堂からの指示、そして患者の希望。