207号室の無人の夜
新年度に浮足立った空気を一掃する中間テストが五月の終わりにあった。
最後の英語が終わった途端に足取り軽くプールへ走った百太郎を捕まえたのは似鳥だった。
息を吹き返したように廊下を人が行き交い、答え合わせや開放感で饒舌になった生徒の声のざわめきが響く階段で、踊り場の隅に避けて百太郎のパーカーから手を離した。
「モモくん大丈夫だった?赤点はなさそう?」
「もーバッチリっすよ!」
「ホント?不安だなあ」
自信満々のブイサインに疑いの眼差しが向けられる。
「そんなことよりプール行きましょうよセンパイ。体動かしたくて仕方ないッス!」
駆け出そうとする百太郎のパーカーをすかさず掴んで引き留めた。首がしまって潰したカエルのような声が出る。
「モモくんね、浮かれてるけど定期考査は答案が帰ってくるまで終わってないんだからね?」
真顔で詰め寄った似鳥の不安が的中したのは四日後。
答案と一緒に追試の申し渡しを受けた百太郎が寮の床で頭を抱えていた。それを囲んで見下ろす似鳥の目が「やっぱり」と言っている。
「すまん。俺がついていながら」
深刻そうに眉間に皺を寄せた魚住が頭を下げると、似鳥が首を横に振る。
「そんな、魚住くんのせいじゃないよ。僕ももっと注意したらよかった」
「いや、同室なのにモモがそんなに勉強してねえの見過ごしてた俺が……」
「もー、似鳥センパイもうおっちセンパイもそんなに気にしないでくださいよぉ」
「モモくんはもっと気にして!」
当事者が一番立ち直りが早い。明日すぐに追試が行われるというのに根拠なく「イケル」と思っている。
「幸い追試は数学だけだ。今晩は俺が責任持って勉強見てやるから絶対に受かれよ」
頼もしい先輩の、ありがたい申し出に思わず声が出た。
「ゲッ」
「ゲッじゃねえだろ。お願いします、だろ。オラ、机に答案出せ!」
時間が足りない長い夜の始まりであった。
丸の少ない答案は数学のものだ。プリントには数字とアルファベットと数学記号が並んでいる。国語や英語のような他のテストに比べ紙面がスカスカしているな、と思う。数式ばっかりで密度のある文字は少ないし、途中式も見られるので問題用紙と解答用紙が一枚になっている。
遠目からざっと見てわかることは、情報量が少ない。これで何をどう導けというのか。数字や数学記号は目が滑るし、アルファベットについてはどこからやってきたのかもわからない。アルファベットがxだけだった時代はまだよかった。いつの間にかaやbやc、もしくはoやpやqも出演する。ならばdからnまではどこへいったのか。
もはやテストと関係のない疑問に悩ませていた頭を丸めた教科書でポコンと叩かれた。
「なんでさっぱり手付かずなんだよ。数一でも似たようなことやっただろ」
「去年は割りませんでした」
分数の分母と分子に分数の入った数式が入っているのが納得いかない。ノートに描くと一つの式に4行は費やすことになる。
「授業聞いてりゃわかるレベルだ。自分のノートは?」
気が進まないながらに差し出したノートには板書がそのまま写されている。
「きれいに書いてんな」
「いやぁ、それほどでも」
「で、ノート見てもわかんねーのかよ」
「それは……」
「まさかわけがわからないまま写してたとか言うなよ?」
「えーっと、その、まさかで……」
再び丸めたままの教科書が振り下ろされた。魚住はその凶器を開いて机に並べた。丸めて持っていたせいで全体的にカーブがついている。一年使い込んだおかげて角がとれかけ、全体的に黒ずんでいた。真新しい百太郎のものじゃなく魚住のものだった。
ノートとぴったり同じ問題が載っているページにはところどころ書き込みがある。
「どうせ教科書に載ってる問題を黒板に書いてンだから、それ丸写しするのに忙しくて細かい説明が頭に入らないんじゃ意味ねえんだよ。板書とるのが追いつかないなら教科書に載ってるトコは一々写さないで、説明のトコ書いとけ」
教科書を覗くと、先生が授業中に説明していたような内容が几帳面に書き加えられていた。
「うおっちセンパイ、意外とマメっすね」
「意外じゃねえ。自力じゃわかんねーとこあったら見るから、これ見てもう一回自分でやってみろ」
「はーい」
教科書の内容を順に読んでいくと、途中で話が飛躍したようについていけなくなる。そんな場所には大抵小さな文字で書き込みがあった。
こんな字を書くのか。クセはあるけど読みやすい。
同じ部活の一年違いで丸一年の付き合いでも、手書きの字を見る機会なんかなかったから新鮮だ。丸くて汚い自分の字と比べたらとてもきれいな文字だと思う。
勉強への苦手意識でなかなか集中できない脳味噌を抑えこんで、何度も文字を読む。内容が処理できるようになったら問題の数式に目を移し、途中式を連ね、解けた。
「あれー?」
わかった、という実感があったのに解答の数字が合わない。二段ベッドの下で暇をつぶしていた魚住がすぐに後ろから覗きこんできた。
「おい、これ筆算間違ってる」
「マジっすか」
「何で3×6が19なんだよ」
いつの間にか手にしていた赤ペンで数字を書き換え、筆算をやり直すと、最後には正解が導き出された。
「やり方は合ってるから凡ミスに注意して次の問題行け」
そうしてまたすぐにベッドに戻ってゴロゴロ雑誌を読み始めた。
静かだ。そう思って体を起こした。
不定期にシャーペンのコツコツいう小さな音が聞こえていたが、いつの間にか全く聞こえなくなっていた。代わりに安らかな寝息。
「おい、居眠りしてんじゃねえぞ」
叩き起こそうと側に行くと、指示しておいた問題集はすっかり解き終えていた。自分で採点してやり直しまで済ませている。声をかけてくれたら手伝ったのに。
慎重に問題集とノートを引っ張り出し、途中式や筆算まで合っているのを確かめた。間違えたところは最初の問題のように赤ペンでやり直している。
徹夜も覚悟していたのに、時間にはまだ余裕があった。
「やればできるじゃねえか」
競泳でも集中力にムラがあって、調子のいい時と悪い時で驚くほどの差がある。勉強だって、スイッチさえ入るかどうかなのだ。言葉で褒める代わりにくせっ毛の頭を撫でた。
ずいぶん気持ちよさそうに寝ている。起こすのも忍びないので椅子を引いてベッドに寄せ、なるべくそーっと体を布団の上に移した。それでも起きないのを確かめると、魚住は静かに部屋を出た。
翌日、百太郎は一時間遅れで部活に現れた。屋内プールに水着姿で採点済みのほっかほかの答案用紙を片手にひっくり返りそうなほど胸を張る。
「ほら!見よ、この輝かしい点数!」
はしゃぎぶりを見つけてぞろぞろと集まってきた同級生部員に追試結果を見せつけた。
「満点……」
「一桁から急に満点ってありえねー」
「答え暗記したんじゃねえの?」
「それはそれですごくね?」
口々に勝手なことを言う部員たちにグイグイ答案を突き出し、更に胸を張る。胸を張るというよりも反り返っている。
「そんなに褒めなくていいって」
「追試のヤツなんか褒めねえよ」
いつの間にか一塊になって騒いでいる二年生の群れの中心にビート板が振り下ろされた。
「あだっ」
最後の英語が終わった途端に足取り軽くプールへ走った百太郎を捕まえたのは似鳥だった。
息を吹き返したように廊下を人が行き交い、答え合わせや開放感で饒舌になった生徒の声のざわめきが響く階段で、踊り場の隅に避けて百太郎のパーカーから手を離した。
「モモくん大丈夫だった?赤点はなさそう?」
「もーバッチリっすよ!」
「ホント?不安だなあ」
自信満々のブイサインに疑いの眼差しが向けられる。
「そんなことよりプール行きましょうよセンパイ。体動かしたくて仕方ないッス!」
駆け出そうとする百太郎のパーカーをすかさず掴んで引き留めた。首がしまって潰したカエルのような声が出る。
「モモくんね、浮かれてるけど定期考査は答案が帰ってくるまで終わってないんだからね?」
真顔で詰め寄った似鳥の不安が的中したのは四日後。
答案と一緒に追試の申し渡しを受けた百太郎が寮の床で頭を抱えていた。それを囲んで見下ろす似鳥の目が「やっぱり」と言っている。
「すまん。俺がついていながら」
深刻そうに眉間に皺を寄せた魚住が頭を下げると、似鳥が首を横に振る。
「そんな、魚住くんのせいじゃないよ。僕ももっと注意したらよかった」
「いや、同室なのにモモがそんなに勉強してねえの見過ごしてた俺が……」
「もー、似鳥センパイもうおっちセンパイもそんなに気にしないでくださいよぉ」
「モモくんはもっと気にして!」
当事者が一番立ち直りが早い。明日すぐに追試が行われるというのに根拠なく「イケル」と思っている。
「幸い追試は数学だけだ。今晩は俺が責任持って勉強見てやるから絶対に受かれよ」
頼もしい先輩の、ありがたい申し出に思わず声が出た。
「ゲッ」
「ゲッじゃねえだろ。お願いします、だろ。オラ、机に答案出せ!」
時間が足りない長い夜の始まりであった。
丸の少ない答案は数学のものだ。プリントには数字とアルファベットと数学記号が並んでいる。国語や英語のような他のテストに比べ紙面がスカスカしているな、と思う。数式ばっかりで密度のある文字は少ないし、途中式も見られるので問題用紙と解答用紙が一枚になっている。
遠目からざっと見てわかることは、情報量が少ない。これで何をどう導けというのか。数字や数学記号は目が滑るし、アルファベットについてはどこからやってきたのかもわからない。アルファベットがxだけだった時代はまだよかった。いつの間にかaやbやc、もしくはoやpやqも出演する。ならばdからnまではどこへいったのか。
もはやテストと関係のない疑問に悩ませていた頭を丸めた教科書でポコンと叩かれた。
「なんでさっぱり手付かずなんだよ。数一でも似たようなことやっただろ」
「去年は割りませんでした」
分数の分母と分子に分数の入った数式が入っているのが納得いかない。ノートに描くと一つの式に4行は費やすことになる。
「授業聞いてりゃわかるレベルだ。自分のノートは?」
気が進まないながらに差し出したノートには板書がそのまま写されている。
「きれいに書いてんな」
「いやぁ、それほどでも」
「で、ノート見てもわかんねーのかよ」
「それは……」
「まさかわけがわからないまま写してたとか言うなよ?」
「えーっと、その、まさかで……」
再び丸めたままの教科書が振り下ろされた。魚住はその凶器を開いて机に並べた。丸めて持っていたせいで全体的にカーブがついている。一年使い込んだおかげて角がとれかけ、全体的に黒ずんでいた。真新しい百太郎のものじゃなく魚住のものだった。
ノートとぴったり同じ問題が載っているページにはところどころ書き込みがある。
「どうせ教科書に載ってる問題を黒板に書いてンだから、それ丸写しするのに忙しくて細かい説明が頭に入らないんじゃ意味ねえんだよ。板書とるのが追いつかないなら教科書に載ってるトコは一々写さないで、説明のトコ書いとけ」
教科書を覗くと、先生が授業中に説明していたような内容が几帳面に書き加えられていた。
「うおっちセンパイ、意外とマメっすね」
「意外じゃねえ。自力じゃわかんねーとこあったら見るから、これ見てもう一回自分でやってみろ」
「はーい」
教科書の内容を順に読んでいくと、途中で話が飛躍したようについていけなくなる。そんな場所には大抵小さな文字で書き込みがあった。
こんな字を書くのか。クセはあるけど読みやすい。
同じ部活の一年違いで丸一年の付き合いでも、手書きの字を見る機会なんかなかったから新鮮だ。丸くて汚い自分の字と比べたらとてもきれいな文字だと思う。
勉強への苦手意識でなかなか集中できない脳味噌を抑えこんで、何度も文字を読む。内容が処理できるようになったら問題の数式に目を移し、途中式を連ね、解けた。
「あれー?」
わかった、という実感があったのに解答の数字が合わない。二段ベッドの下で暇をつぶしていた魚住がすぐに後ろから覗きこんできた。
「おい、これ筆算間違ってる」
「マジっすか」
「何で3×6が19なんだよ」
いつの間にか手にしていた赤ペンで数字を書き換え、筆算をやり直すと、最後には正解が導き出された。
「やり方は合ってるから凡ミスに注意して次の問題行け」
そうしてまたすぐにベッドに戻ってゴロゴロ雑誌を読み始めた。
静かだ。そう思って体を起こした。
不定期にシャーペンのコツコツいう小さな音が聞こえていたが、いつの間にか全く聞こえなくなっていた。代わりに安らかな寝息。
「おい、居眠りしてんじゃねえぞ」
叩き起こそうと側に行くと、指示しておいた問題集はすっかり解き終えていた。自分で採点してやり直しまで済ませている。声をかけてくれたら手伝ったのに。
慎重に問題集とノートを引っ張り出し、途中式や筆算まで合っているのを確かめた。間違えたところは最初の問題のように赤ペンでやり直している。
徹夜も覚悟していたのに、時間にはまだ余裕があった。
「やればできるじゃねえか」
競泳でも集中力にムラがあって、調子のいい時と悪い時で驚くほどの差がある。勉強だって、スイッチさえ入るかどうかなのだ。言葉で褒める代わりにくせっ毛の頭を撫でた。
ずいぶん気持ちよさそうに寝ている。起こすのも忍びないので椅子を引いてベッドに寄せ、なるべくそーっと体を布団の上に移した。それでも起きないのを確かめると、魚住は静かに部屋を出た。
翌日、百太郎は一時間遅れで部活に現れた。屋内プールに水着姿で採点済みのほっかほかの答案用紙を片手にひっくり返りそうなほど胸を張る。
「ほら!見よ、この輝かしい点数!」
はしゃぎぶりを見つけてぞろぞろと集まってきた同級生部員に追試結果を見せつけた。
「満点……」
「一桁から急に満点ってありえねー」
「答え暗記したんじゃねえの?」
「それはそれですごくね?」
口々に勝手なことを言う部員たちにグイグイ答案を突き出し、更に胸を張る。胸を張るというよりも反り返っている。
「そんなに褒めなくていいって」
「追試のヤツなんか褒めねえよ」
いつの間にか一塊になって騒いでいる二年生の群れの中心にビート板が振り下ろされた。
「あだっ」
作品名:207号室の無人の夜 作家名:3丁目