アザレアの亡霊
2.バビロン
死体を見下ろす少年を、クレアはしゃがんだままじっと見上げる。何の感情も浮かんでいないその顔が、クレアには何処か痛いのを我慢しているように見えたのは気のせいなのだろうか。
困ったように眉を下げて、クレアは立ち上がって彼の手を握ろうとする。
「クレア―?」
そんな二人の背後から、ボロ雑巾のような布に身を包んだ老婆が声を掛けてきた―老婆と呼んでいいものか、両眼はカメラのようなものが埋め込まれているし、ほとんど抜け落ちた頭髪があった場所は多くのボルトが目立つ。
汚染区域に住むシスター・マリアである。
外見こそ奇怪ではあるものの、彼女はこの地で身寄りのない子を育てており、クレアにとって信頼できる数少ない大人の一人であった。
「──あ、まりあっ…まりあっ」
シスター・マリアなら先程の人達のように少年を怒鳴ったりしないだろうと嬉しそうに名前を呼んで、少年を振り返った。
「マリア…?」
クレアの言葉を反芻するように、少年は老婆に目を向ける。
二人の視線が絡んだとき―レンズであるはずのマリアの目に、形容しがたい感情が浮かんだ。
「……お主、名は?」
「…アザレア」
アザレア―それは、この街の名前だった。
『九龍』という名の塔から生えるウージの眼に支配されたこの街と、同じ名前だった。
何処か緊張した空気を感じたのか、二人を交互に見つめながら、少年が名前を口にするとクレアは「ハイ」!と手を上げた。
「クレア!クレア!…アザレア!名前、似てる」
無邪気に笑いながら「ね?」とマリアに同意するように首を傾げてきた。
「マリア。クレア、アザレアと隠れん坊、したっ」
明らかに年よりも幼い口調で話すクレアは、その知覚障害を如実に指し示していた。 マリアはゆっくりとクレアに近づき、その肩を抱き寄せる。
まるで、アザレアから引き離すように―
「クレア、アザレア…ここには、いない方がいいじゃろう。ついてまいれ」
そう言うと身を翻し、汚染区域の奥へと歩き始める。アザレアは死体を一瞥すると、二人に並んで歩き始める。
汚染区域『バビロン』―ランクCと呼ばれる下層民は、そこに押し込められていた。サイボーグ手術の失敗による障害者、犯罪者などの社会落後者はランクCという烙印を押され、福祉の恩恵を受けることもできず、ひっそりと暮らしていた―これが世界有数の都市と謳われるアザレアの、もう一つの顔である
「うー?」
肩を抱き寄せられながら、クレアは不思議そうにマリアを見ていたが、いつものように手を繋がれると大人しく彼女に従った。それでもアザレアが気になる様で、横並びに着いてくる彼の方をチラチラと見ている。
その過酷で都市アザレアの闇を浮き彫りにさせたような汚染区域の中で、クレアの存在は正に奇跡だった。ランクAの領域でも恐らく彼女のように健やかな肉体を完全に留めたままの人間は数少ないだろう。それを上流階級者に貢いで巨大なスラムと化したランクCの汚染地域を逃れようと画策した者も中にはいた。クレアの両親は、その私利私欲の波に呑まれ、我が子を守ろうとして三年前に他界している。
生前託されたシスター・マリアの元に身を寄せてから、人見知りの激しかったクレアは、今ではこうして彼女になついていた。
刺さるような視線が、街を歩くクレアに注がれる―しかし、マリアの庇護下に入ってからは、周囲のクレアへの干渉はピタリと止んだ。
そして、クレアを受け入れたのはマリアだけではなかった。彼女が育てる幼い孤児たちもまた、クレアに対する偏見をもたなかった。
やがて孤児院―と呼んでいいのかどうか、老朽化がかなりすすみ今にも崩れそうだ―に到着すると「あ!クレアお姉ちゃん!」「クレアだー!」まだ幼い子どもたちがクレアの元に駆け寄ってくる。
いずれも、出来損ないの義手や義眼が装着され、中には義足が破損したがろくな修理を受けられず車椅子を操作している本末転倒な子もいた。
だがそのいずれの瞳も、曇ってはいなかった。
街を歩いていた時には気弱そうにマリアの影に隠れるように歩くクレアだったが、孤児院に辿り着けば出迎えた子供達に嬉しそうに笑みを返す。
人の感情に過敏に反応し、好意には笑顔を、敵意や悪意には表情を曇らせるその様は、まるで人間の感情を映す鏡のような少女だった。自分よりも幼い子供達の中に飛び込んで頭を撫でたり笑い合ったりしながら、彼らの興味が見慣れぬアザレアの方へ向くと、ビシッと彼を指差して「アザレアっ!クレアと隠れん坊したっ!」と、マリアにした紹介と同じようにしながら、アザレアを見て笑みを向け
「──友達」
と嬉しそうに言いう。
「 とも―だち―」
ポツリと、その言葉を反芻すると、子供たちはわっとアザレアに群がる。
「アザレア!」「こんにちわ!」「わぁ!あざれあ、羽生えてる!」歓声を上げながらアザレアの背中の部品、髪、ズボンを新しい玩具のように触り出す子供たち―
「うおっ?!や、やめろ!」
そこで、やっとアザレアもまともな反応を見せた。
そんな様子にクレアは楽しそうに笑みを浮かべる。
自分もそのアザレア襲撃の子供達の輪に入ると彼の頭や顔を遠慮なく撫で回し──むにゅり、と唇をタコにさせるように両頬を両手で挟むと「アザレア、沢山友達、出来た」そう言いながらぴょんぴょんと身体を跳ねさせる。
それを見ていた周囲の子供達が自分も自分も、とねだり始めれば、クレアはアザレアから手を放して同じように彼らの髪や顔をわしゃわしゃと撫で回した。
「おぶっ…!お、おいっ…!」
先程までの喧騒が嘘のような穏やかな光景―しかし、マリアの表情だけは、依然として複雑なものであった。
「アザレア―しばらくは、ここにいたほうがよいじゃろう。クレア、アザレアに色々と教えておやり」
そう言い残すと、マリアは孤児院の奥へと姿を消していった。マリアの様子にクレアは不思議そうに目を瞬かせて彼女を見ていたが「はーい」と素直に答えて、子供達から揉みくちゃにされているアザレアの手を引っ張ると)アザレア、こっち、こっち(と言いながら彼の手をぎゅっと握って孤児院の中を案内しようとし始める。
「…!」
クレアに手を引かれ、子供たちの輪を抜け出す。
『温かい』
クレアの手を、そう思った。数人の子どもたちが着いてきたが、他の子どもは思い思いに別の遊びをしたり、家事を再開していく。その日から、アザレアの孤児院での生活が始まった―