アザレアの亡霊
3.アザレアの心臓
外で大人達を前にしているときとは違い、孤児院でのクレアは伸び伸びとしていた。よく笑い、よくはしゃぎ、知能が低いながらも子供達の面倒を良くみている。
それでも度々、一人で外に出る事があるのだと、子供達がアザレアに教えた。
孤児院の柵から時おり浮浪者がマリアの目を盗んではクレアに声をかけ、両親を見たと言われると、探しに出てしまうらしい。未だに両親の死を理解しきれていない彼女は、楽しそうに過ごす一方で、時おり思い出したように寂しげに空を見上げる。
ある夜、部屋の上から足音が聞こえて起きたアザレアが様子をうかがうと、クレアが屋根の上に座っているのが見えた。もう暑さも薄らぎ、少し肌寒い時期だというのに、彼女は薄い寝巻き姿のままだ。
アザレアに気が付いたようにクレアが空から顔をそちらに向けると、しー、といつかのように言いながら、唇に人差し指を立てて、騒がないように促す。
ギシリ―極力音を立てぬよう屋上に登ると、クレアの隣に腰を下ろす。月とだけが二人を見ていた。
街を支配する送電塔『ウージの眼』もバビロンまでは伸びていない―バビロンの電気は、どこから供給されているのだろうか。
遥か彼方にアザレアの中枢である塔『九龍』がそびえ、バビロンを監視しているかのような―実際街を監視している―戦艦『千鶴』が遠くを飛び、サーチライトの光を街に注いでいる。
見慣れたその景色を見つめるクレアの瞳は、汚染地域にいる誰よりもきらきらと輝いている。
「にょっき、くじら」
正式名称を知らないのか、『九龍』と『千鶴』を指差しながら独特のあだ名を披露すると、隣に座ってきたアザレアへと顔を向けた。
「アザレア、寝れない?」と、癖なのか首を傾げて問いかければ、胸元近くまであるクレアの栗色の髪が揺れる。
その呼び名に、アザレアは苦笑いを浮かべる。
個人的な記憶は何一つないが、九龍のことも、千鶴のことも、バビロンのことも、ウージの眼のことも分かっていた。クレアの問いには答えないまま、にょっき―『九龍』を指さす。
「俺は、あそこにいた…気がする」
アザレアの指を辿るように『九龍』を指差した彼に、クレアは驚いたように目を瞠目させた。
「アザレア、にょっきに居た?本当?」
瞬いたクレアの目に、好奇心の色が宿る。
「にょっき、高い高い、雲の上、行ける?」
高過ぎるが故に上が霞んで見えるからだろうか、そう問いかけながら
「クレア、『にょっき』か『くじら』に行きたい。マリア、教えてくれた。クレアのパパ、ママ、高い高い、雲の上にいる。だから、会えない…って、マリア、言った」
そう説明しながら、アザレアから空へと顔を向ける。
アザレアはぐっと下唇を噛む。
『九龍』に戻る―それ自体は、簡単な気がした。
だが、それによって何が起きるのか、見当もつかない。そして、何より、命をかけてあそこから自分を連れ出した者たちがいるのだ。体温を求め、夜空を見上げるクレアの手に、自分の手を重ねる。
「……俺は、あそこから逃げてきた。『ペンデッタ』と一緒に」
少し冷えた手に温かなアザレアの手が重なると、クレアはまるで引き戻されるように空からアザレアへと視線を戻し始めて聞いた言葉に、首を傾げて問いかける。
「……にょっき、怖い?『ぺんでった』……アザレア、友達?」
「……分からない」
アザレアは頭を振る。『ペンデッタ』がなんだったか―頭を打ったせいだろうか、全く思い出せないこともあれば、思い出せそうで思い出せないこともあった。
『ペンデッタ』は間違いなく後者であった。思い出すことが、恐かった。
思い出せば、クレアが遠くにいきそうな気がした。
手が、体が、ガタガタと震え出す。分からない、と答えるアザレアにクレアは不思議そうに彼を見ていたが、ふと小さく彼が震える姿を見れば、出逢った時のように彼の頭に両腕を伸ばして引き寄せるように抱き締める。きゅう、と抱き締めたまま、彼の白い髪をゆっくりと撫でる。
「怖い、ない…クレア、アザレアと一緒、いる」
「クレア…」
自然に、少女の体を抱き返す。だが、震えは止まらない。
―違う、これは、怖いとか、寒いとか、そういうせいじゃない!
頭の中で火花が散り、キリキリと思考回路がネジを巻いた。
「…くる」
クレアを抱きしめたままそう呟くと同時だった―アザレアの街を、大停電が襲った。
ブン―低い唸りをあげながら、街の明かりが次々と消えていく。
「──っ?」
不意に街の僅かな明かりが一気に落ちれば、厚雲で仄かな光を注ぐ月の存在がはっきりと浮かんで見える。
「アザレア…キラキラ、まっくろになった」
不安そうに言うクレアはアザレアを抱き締める腕に力を入れて、不安そうに辺りを見回す。天変地異もないのに、街の全てが停電に陥る―あきらかな異常事態である。その中で『九龍』だけは予備電力が働いているのか、輝きを保っていた。
アザレアはクレアから体を離し、月を見つめた。月の中に、一点のシミが浮かんだ。そのシミが次第に大きくなる―否、何かが二人に近づいているのだ!
ズズン!
『それ』は、二人の前に着地した。
『それ』は奇怪な姿をしていた。象の鼻のような顔―ラグビーの防具のような肩―それらがケーブルで球体のボデイとつながっている。
目の前に着地した『それ』をクレアは不思議そうに首を傾げて見つめた。普通に見れば兵器のようにも見える明らかに異様な『それ』に対して、沸いたのは恐怖ではなく好奇心だ。アザレアにしたように「しー」と理解出来るかもわからないそれに注意しながらも、触れようと手を伸ばそうとして―
「クレア―!」
アザレアはクレアを抱きしめながら、そのまま横に飛ぶ。『それ』が爪のようなものを広げると『バシュ!』と四方に伸び、天井をガガガガ…!と削っていく。
もう少し遅ければ、クレアの体は肉塊と化していただろう。
目の前に現れた『それ』─九龍機器001号、通称『ユナ』の攻撃にクレアはアザレアに抱き締められながら目を見開く。何が起こったのかは理解出来ずとも、その大きな音に恐怖は覚えたようだ。
「アザレア、あれ、怖い…っ」
逃げなくては、と思う中で、マリア達を起こさなくては、とクレアの頭に過る。だが屋上へ上ってきた梯子のあるバルコニーは目の前の九龍機器に遮られている。『ユナ』の胴体である球体がグルリと回転すると、人間の顔が浮かび上がる―
「アザレア―やっと見つけましたよ。ここが『ペンデッタ』のアジトというわけですか。その女も一員なのですね?」
そう言うと、ユナの手が再び二人に向けられる。
「…なんのことだ…クレア、しっかり捕まってろよ!」
浮かび上がった人の顔にクレアは目を瞬かせながらも、迫るユナの手に自然とアザレアにぎゅっと抱き付く。
「イジメ、ダメっ…」と今にも泣きそうな顔で『ユナ』に向かって叫ぶ。
「―その少女―まさか―なんと、完全体ですか?いや、それどころか―」
ユナの球体に、クレアが分析されている画面が浮かび上がる。