Who cares ?
#02 免罪符代わりの愛の囁きはいわない
きっ、と睨みながら触るなと言った臨也の声は硬かった。よくよく見てみれば、躯も小さく震えている。ぎゅうとシーツを握りしめてた指先は力の込めすぎで色がない。
静雄には、何故臨也が突然このようになったのか分からなかった。訝しげに、眉を寄せる。震える理由はなんだ。見抜こうとじっと静雄は見詰める。
すると、訝しむ静雄の向けている視線の先が震えている自分の指先だということに臨也は気付いたらしい。息を詰まらせ、悔しげに顔を俯かせた。表情は艶やかな黒髪に隠れる。
今の臨也はいつにもまして躯は小さく、華奢に見えた。
確かに、静雄と臨也の体格を比べると、元々の身長差があった。立って並べば臨也の頭は静雄よりも低い場所に存在している。例え臨也に平均身長があったとしても、それよりある静雄と比べてしまえば小さく、そしてその差は、縮こまる臨也を目の前にすると輪を掛けて大きく見えた。
折れてしまいそうな、儚さを纏うた肩。
普段は儚さも弱さも微塵も見せず、しぶとくふてぶてしく生きている男だと言うのに。簡単に死にもしない男だと言うのに。この有様。生きていれば世の中不思議なこともあるものである。
そのせいなのか他に理由でもあるのか。触れる直前に臨也に叩き落されたけれども静雄は先ほど手を伸ばしていた。
まさかこの男を慰めるため? それは自分でも分からない。大体、何に対して慰めると言うのか。
分かるのは、自分もいつも通りではないということだけだった。訳の分からない世界に目が回りそうになる。
疎ましくも、もどかしい。この感情と結び付く名が何かはまだ知らない。知らないでいたい、気付きたくない。分からないままの方がずっといい。警鐘が鳴る。纏まらない思考のように紫煙も四散する。
またこの今の空間も酷く居心地が悪かった。自分の部屋だと言うのに。追い払いたいものの、動けないところをみるとどうしようもなかった。沈黙が、痛い。
だが、そんな沈黙を破って、臨也がぽつりと彼は問いかけてきた。彼の手にあるシーツが更に皺を作る。
「何……したの?」
「はあ?何したって、手前……」
わざわざ口に出せと言うのか。言わずとも分かるだろうに。思わず静雄は眉を顰める。
確かにこれは酒の勢いと場の雰囲気に流されてやってしまった過ちだった。それでも、割合嫌がる素振りも見せず、寧ろ先にのってきたというのは相手の方だ。それなのにこれでは調子が狂う。臨也は我を失くすほど浴びるように飲んでいたわけでもなかった。ただ、確かにこいつ酔ってやがる、と思った程度には飲んでいたけれども。でなければ、昨夜気の迷いのような一夜の関係を持つことなどするはずがない。覚えているだろうに、分かっているだろうに、何故わざわざ確認するというのか。
しかし、よくよく考えてみると、何処で何かが可笑しかった。辻褄が合わない、妙な違和感。
情報屋をしているこいつの記憶力は決して悪くない。寧ろ、覚えていなくてもよいことまで人の弱みとして覚えているというのに、だ。敢えて訊いてくるということは、まさか、覚えてないとでもいうのか。その一つの仮定を立てて、静雄は頬を引き攣らせた。
俯けていたはずの臨也の顔は静雄が固まっている間に少しだけ上がっていて、前髪の合間から揺れる瞳が覗いていた。恐る恐る、何かを窺う双眸。
――ああ、この男にもこんな風になることもあるのか。
静雄は紫煙をまた吐きだしながら思った。だが、なるほど、これで合点がいって、静雄は溜息を一つ零した。
彼はいつだって人より高みにいて、人を見下ろして笑っていた。たとい静雄が殺意を持って意図的に投げた物にぎゃあぎゃあと喚いていても、どこか臨也は余裕を保っている。
それが普通であるが、しかし、普通が普通と思ってはいけない。あくまでそれは平均的に彼が余裕を持っているというだけであって、絶対的なものではない。絶対的なものなどありやしない。そう、自分達がこの様な過ちを犯したように。臨也も人間なのである。性格は少しどころか大分捻くれているが、本能的感情はきちんと残っている。
だから、戦慄いているわけだ。記憶していないから、何が自分の身に起こったのかわからない。減らない口は強がりだ。そうすると何故だか色々なことがすとん、と腑に落ちた。ぴくりと臨也の肩が震えるが、零した溜息を吸い直したところで戻るわけでもないから放っておく。
恐らく臨也が震えていた理由が分からなかったのは、それは、臨也が何か静雄に関係するところで心底の恐れを抱いて躯を震わせているところを見たことがないからだ。あくまでそれも、ような気がすると付け加え、且つ自分に対しての恐怖、だけれども。兎に角。これは自分を恐れないという前提を勝手に抱いてた。可笑しなことに、淡い期待を抱いていたのだ。だから、その前提を消せなかった。消したく、なかったのだ。
唯一、では無いにしても、自分から逃げることのない人間が恐らく自分との関わりで慄然としているのを把握するときほど悲しいことは無い。これも、同じなのか、と一瞬思ってしまう。
だが、何故だかこれは恐らく今だけだろう、と思えた。別れてまた会えば、いつものように戻るはずだ。そう、思った。いや、思いたかったのかもしれない。ただのこれしきで一生離れていくほどやわい人間ではない、と。
静雄は吸っていた煙草を消すと、包み隠すことなくありのまま簡潔に告げた。お前を抱いた、と。
自分だけ覚えているのはフェアではない。覚えていないのなら、教えてやればいい。どうせ隠したところで、勘のいいこいつはすぐに気付くだろう。もしかしたらもう気付いているからこそのこれなのかもしれない。兎に角、もはやどうしようもないことなのだ。諦めろ。そう直接は言いはしなかった。だが、静雄がそう思っていることは確実に臨也には伝わっただろう。
臨也は目を見開いた。しかし、大きく取り乱すことはなかった。ナイフも飛んでこない。寧ろ、不思議なことに震えは一度止まった。
「嘘、じゃ……ないよ、ね?」
「ついてなんの得になるっていうんだ」
「そうだね」
いっそ怖い程に静かな間が出来た。臨也は静雄の事を読めないというが、静雄だとて臨也の考えは読めない。今頃悔いているのか、自己嫌悪に陥っているのか。先ほどはフェアじゃないと思っていたが、教えてから流石に此方だけ覚えていて、相手が覚えていないというのであるならば、全て悪いのは此方のような気がしてきて、静雄は珍しい言葉を臨也に与えた。ああ、酷く、調子が狂う。
「……なんだ、その悪ぃ」
「謝るぐらいの覚悟だったらやらないでくれる」
ばさりと臨也は静雄の言葉を切り捨てた。記憶がないならと謝ったと言うのに、何故そんな風にされなければならない。静雄の頭に血が上り始める。
だが、臨也は静雄の変化に気付かぬまま、何か堰止める物が決壊してしまったかのようにして次々と罵詈雑言を静雄に浴びせていった。元々口が達者なやつである。その口は休むことなく只管に静雄を詰っていく。だが、臨也が暴言を吐けば吐くほど、その内容はより稚拙に、脈絡もないことに変わっていった。同時に見る見るうちに臨也の表情が強張っていく。
作品名:Who cares ? 作家名:佐和棗