オトナダケノモノ
2.
教皇宮の最奥で一風変わった光景にサガは目を丸くして、次には糸目になりながら、直立不動で教皇の指示を待っていた。しかし当の教皇はといえば、うんうんと唸り声を上げるばかりで次のことばがないのである。死ぬ死ぬと大騒ぎしていた教皇の具合はというと、侍医の診察の結果「ぎっくり腰」という見立てであった。一同、安堵の息を漏らしたのはいうまでもなく、緊張感は一気に解けた。
教皇は寝台の上で寝そべっていたが、あまり他人様には見せられない姿……見たくもない半ケツがサガの目の前に晒されているという状態である。サガが糸目になるのも無理からぬことだった。そんな教皇の腰には山形に盛られた何かが乗せられていた。何やら怪しい匂いがそこから放たれている。教皇の傍にいたムウに尋ねると「これはお灸です」という返事。
お灸とは何だとさらに尋ねれば、ムウの長い講釈が始まったのだが、なるほど、そんなものが東洋にはあるのかとぼんやりと眺めていた。もしかしたら、シャカにも効果があるかもしれない。少しばかり分けて貰おうかと思いながらも、シャカの場合は傷病というわけでもなし……と心の内で問答していた。
「―――ガ、サガ?」
ムウの胡乱な表情にハッとして改まるが、「やっぱり聞いてなかったようですよ?」とムウが呆れ顔となった。ついでにフウッと教皇の腰の上にある、お灸とやらの頂きに息を吹き付けた。ぽうっと頂上が赤く灯ると同時に「うぉおお……」と何とも言えぬ悶絶の声を上げながら、教皇が告げたのは近々に次期教皇を選びたいという耳を疑うような、とんでもない提案だったのである。
教皇の元から戻ったサガはアイオロスや他の黄金聖闘士、そして教皇宮従者にも教皇のトンデモな命を伝えた。皆一様に驚いてはいたが「この際、いい機会だ」という雰囲気もあったのだろう。あれよあれよという間に流れが向かっていくのを他人事のようにサガは受け止めていた。
サガの心はいつも別の場所にあった。それでも教皇が療養中のために回ってくる仕事もあって、こなさなければならない。約束通り、元料理長はきちんとシャカの様子を伝えてくれていた。彼女を全面的に信任していたけれども、やはり、サガ自身の目で確かめたいという気持ちもあった。
少しずつ蓄積していく苛立ち。そんな折だ。件の者が彼らの仲間と共に交わしていた他愛ない会話を耳にしてしまったのである。
教皇宮へと続く渡り廊下近くの中庭で、気分転換にぼんやりと中庭の花壇を眺め、木陰に凭れていた時だ。サガは立ち聞くつもりなど毛頭なかったが、耳に届いたのだ。渡り廊下を歩き、他愛ない話を交わす者の会話の中から「乙女座様が――」というワードが。気配を断ったまま、すっとサガは木陰から覗き見ると、廊下を歩く者が二人あった。そのうちの一人を見咎めて、自然と眉間に皺を寄せた。
シャカを軽く抱き、どこか誇らしげな表情を浮かべていたヘルメスの使者だ。近くにサガがいるなどとは思いも寄らぬことなのだろう。声を潜めることなく、むしろ自慢げに驕るような声が耳障りに届いた。
「―――で、思わず尋ねてしまったわけさ。まったく、可愛らしい顔をしてやることがとんでもない。本当に規格外な方だと前々から思っていたが、今回ばかりはさすがに驚いたさ」
「へぇ、そりゃあ災難だったな。他の方々は皆ご立派になられていたのに。乙女座様は昔から珍妙な方だったらしいじゃないか。でも、あれだろ?パンドラボックスにも触ったんだろう?」
「ああ。この背に担いだ。そして、この腕には黄金聖闘士様だよ?まさか、黄金聖闘士様を抱っこするなんて日がくるとは思いもしなかったさ。飛ぶ瞬間にこう…きゅっと服を掴まれてさ、ちょっとドキッとした」
「はは、じゃあ、いっそのこと聖闘士になってしまえば?」
「冗談きつい―――」
さんざんシャカのことをアイオロスとサガは干物扱いして、言いたい放題、言い腐っていたくせに、他人がシャカのことを面白おかしく揶揄することは、サガには不愉快極まりなかった。シャカが知ればきっと「きみは勝手だな」と淡々と他人事のように言って、さして気にも留めなかったことだろう。また、サガ自身を揶揄すれものであれば、そういう考えの者もいるとサガは冷静に受け止めただろう。でも今、話のネタになっているのは他の誰でもないシャカだ。
確かに今回の件はサガも間違っているとは思う。ほんとうにシャカは融通が利かなくて、頑固者で…でも、素直で頑張りやで、一生懸命で。器用そうだけれども、不器用な面もあって。とても澄んだ瞳で覗き込まれたら。無邪気な微笑みを向けられたら。ずっと抱きしめていたくなるほど愛おしい存在なのだ。シャカのほんとうの良さなど、きっと他の誰にもわからないだろう。いや、わからなくて結構だ―――。
フッツリと何かが切れた状態で彼らの前にサガは静かに立ち塞がった。まさか黄金聖闘士のひとりがいるなどとは思ってもみなかっただろう彼らは驚嘆し、ついで恐縮、蒼褪めていった。そんな彼らに対し、口さがないことをいうな―――とサガは注意した。
そう、至ってサガは冷静に彼らに注意をしたつもりである。
だが、しかし。
教皇宮近くであったこともあって、騒動を聞きつけて人だかりができた。それでも、サガの怒りは収まることを知らず、間に割って入ったムウやアルデバランとアイオロスによって収束した。その時にアイオロスに言われたのだ。「口で八つ裂きにしている奴を見たのは初めてだ」と。
サガに引き留められさんざん罵倒(?)された彼らが、その後しばらく使い物にならないくらい、ダメージがあったとか。また、その有様を目撃した者たちもひどく怯えさせたらしい。噂を聞きつけた者たちからも、すれ違うたびに腫物に触るような扱いを受ける羽目になったのは少々理不尽ではないだろうか……とサガは思わずにいられなかった。