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オトナダケノモノ

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3.
「―――そうだねぇ、たぶんそろそろこっちに帰ってくるんじゃないかと思うよ。あんたのことは逐一、報告はしているから、大丈夫さ。きっと、あの子も安心しているんだろう」
 どこかサガを思わせる柔らかな笑顔を満面に浮かべながら、彼女はシャカに語った。次々とテーブルの上に置かれた、隣近所の村人が栽培しているという野菜を使った惣菜が所狭しと並べられた。料理の腕が自慢らしい、ここの女主人。その女主人からサガにシャカの養生を頼まれたのだと説明を聞いたのはもうかれこれ二週間も前の話だ。

「別にそれはかまわないのだが、そろそろ聖域に戻らないと」
「まだまだ駄目だよ。顔色はずいぶん良くはなったけどね。もっと肉をつけないと!あたしがサガに怒られる。言っただろう?教皇様はただのぎっくり腰で、今じゃすっかりピンシャンしてるって」

 それこそ肉付きのいい指で軽くシャカの頬を撫でた女主人はからからと笑った。

「そうなのだろうが……しかし」

 危篤とか大騒ぎした挙句、蓋を開けてみればただのぎっくり腰で、四日ほど寝込んだあとすっかり教皇は元気になったらしい。人騒がせにもほどがあるし、急な招集さえなければ、シャカが今置かれている事態は起こらなかったのだ。もとを辿れば教皇が原因だとシャカは思っているので、恨み言の一つでも言ってやりたい気分だ。
 ぱぱっと小宇宙を使って聖域に戻ることは修業前の体型に近づいた今のシャカならば、無理なく可能だった。そうしなかったのはサガの反応が怖すぎることもあったが、シャカの好みにぴったりと合った食事を提供し、すっかりシャカを回復させた女主人の料理に手懐けられたのもある。
 それに散策に出かけた折に見つけた古民家をここの村人たちが少しずつ修繕しているのを見るという楽しみをみつけたのもあった。つまり居心地が素晴らしくよかったのである。
 綺麗に食事をたいらげたシャカが使った食器を流し台へと運ぶ。鼻歌を止めて食器を受け取りながら、女主人がたずねた。

「今から行くのかい?」
「ああ、そのつもりだ」
「だったら、昼飯を用意しとくから、頃合いみて家に寄るように他の連中にも言っといておくれ」
「わかった」

 鼻歌を再開させた女主人。少しばかり音程がズレているけれども、とても楽しそうに食器のカチャカチャという音と重ね合わせていた。
 女主人の居る家からのんびりと歩くこと10分。緩やかな丘を登って行くと、目当ての古民家に辿り着いた。数人の村人がすでに道具を広げ、作業を始めていた。そのうちの一人がシャカに気付いて声を掛けた。

「おぉ、坊主、今日も来たか」
「今日も邪魔をする」
「邪魔なんてなってねぇさ。まぁしかし、本当見えているみたいに歩いてくるんだなぁ」

 シャカは瞳をずっと閉じていた。これも修業の一つとして定めていたからである。食を断つということは先日の急な事態のせいで、志半ばで中断することとなったが、これだけは聖域からインドに戻って間もない頃から始め、今もなお続けていた。
 今となっては感覚を研ぎ澄ますことで、寸分違わぬほど映像を結びつけることが可能となっていたので、日常生活に支障をきたすことなど一切なかった。女主人も目を閉じたまま平然と歩くシャカを見て、最初は驚いていたが、今では普通のこととして受け止めていた。
 シャツの袖を捲りあげて、プンときつい匂いを放つ塗料の入った缶と刷毛を手にした壮年の男が、立てかけられた梯子を軽やかに上り、屋根の上に陣取ると色褪せた屋根の上に新しい色を重ねていった。時々下の方で作業している連中と日常の他愛ない話を交わす。
 どこどこの誰々がどうだといったという具合に展開され、時に卑猥な雑談もあって、そういう時に限ってシャカにも話を振ってくるものだから、苦笑を浮かべるしかなかったが。
 ぼんやりと綺麗に修繕されていく家をシャカが眺めていると、背後から声をかけられた。

「楽しそうに見学しているな」
「ああ、とても楽し……」

 くるりと振り返るとのんびりと腰に手を当てて佇むサガがいた。「どれ、少し手伝ってこよう」と言い残して、サガは村人たちに声をかけ、手慣れたように道具を手にして家の中へと消えた。 
 シャカは唖然とするが、サガの様子を窺おうと彼が向かった先へと移動した。サガは一瞬だけシャカに目を向けた後、傷んだ石壁を確かめながら声をかけた。

「具合はだいぶ良くなったようだな」
「え……ああ。彼女のおかげで。逆に今度は太ってしまいそうだ」
「まだまだ太るには程遠いだろう。まったく……」

 スッとシャカの横を通り過ぎて、サガは外に置かれた材料を取りに行き、また戻ってきた。崩れた石をうまい具合に取り外した後、大きさを合わせながら新しい石をきちんと埋め込んでみせた。

「サガ」
「なんだ?」
「きみはその……怒っているのかね?」

 カチカチと石の角を削り取ろうとしていたサガが手を止めて、シャカをじいっと眺めた。

「わたしが怒る理由など、皆目見当もつかない、といったところか?」
「ああ」
「本当に……アイオリアやミロなどのほうがよっぽど健康的で可愛げがあるとつくづく思ったよ、今回。おまえは無茶をしすぎだ。限度というものがあるだろう」
「アイオリアやミロがどのようなことをしているかは知らないが。わたしにはわたしのやり方でしかできない。誰にも教えを乞うことなどできなかったのだから」

 サガはすぐには答えなかった。次々に傷んでいた石壁を手際よくなおしていくと、ある程度のところで手を休めた。そして、村人たちにシャカが世話になっている女主人が昼食の準備をしていると告げた。歓声が上がり、早々に作業を切り上げた彼らは彼女の住む家へと足を向けた。残ったのはサガとシャカだけで、とたんにシンと古民家は静まり返った。
 サガが来る前までシャカが見学するのに居た腰をかけて休むのにちょうどいい形の自然の岩でできた椅子にサガは腰をかけると、手を払いながら、ようやく先程の続きを話し始めた。

「シャカ、ここにお座り。わたしはね、おまえに怒っているだけじゃあない。わたし自身にも怒りを感じたわけだ」

 サガの横にシャカも腰をかけた。くつろぐようにサガは薄い青色の広がる空を見上げていた。

「どうして、きみが?」

 シャカが好き勝手に修業をしたことで何故サガが、サガ自身に怒りを覚えるのかそれこそわからないことである。サガは形の良い顎に左手を宛がい、首を傾いだ。

「―――誰にも教えを乞えなかったと言っていたが、もし、誰か聖域の者がおまえのそばにいたら、おまえはその者に教わったか?」

 じっとシャカをサガが見つめた。閉じている双眸ですらこじ開けそうな視線に気恥ずかしさすら覚えて、シャカは顔を背けた。

「それはわからない。『たら』、『れば』、などという話は愚かだ」
「そうかもしれない。が、それでも考えてしまったよ。わたしがもし、あの時―――」
「あの時?」

 その続きのことばはなく、綺麗に組んだ自らの手をサガはしばらく眺めたあと「戻ろうか」と立ち上がった。


作品名:オトナダケノモノ 作家名:千珠