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オトナダケノモノ

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 静々と森を散策する淑女が滑らかな闇色の絹を風に舞わせ進むように、夜が訪れた。サガに会ったら、インドでの生活で体験した色々なことをシャカは話したかった。
 ギリシャとは違った、かの地での朝の空気は、少ししめやかではあったけれども、靄に満ちた緑風の心地よさだとか、朝露に濡れる草花の色鮮やかで、時折訪れた街での人々の喧噪には閉口しただとか……ほんとうに他愛ない話だろうけれども、きっとそんな話でもサガはにこやかに笑んで聞いてくれるだろうと思っていたから。
 だが、実際にいまの状況と言えば、ただ心苦しいばかりである。そこにはない、存在しないはずの大きな壁によって隔てられている気がしてならなかった。どうすればその壁を越えて近づくことができるのか、さっぱりシャカにはわからないでいた。

「どこへ?」

 静かな夕食を終えたあと、先にシャワーを浴びて出てきたサガがタオル片手に髪を拭きながら、戸口へと向かうシャカを呼び止めた。外はすっかり暗くなっていたけれども、居心地の悪さから少しばかり、シャカは解放されたかった。

「夜の散歩だ」

 手近にあった椅子にタオルをかけたサガ。ついてくるつもりなのだろうかとシャカが危ぶんだが、サガは「ほどほどにな」とだけ告げると、サガ用にとあてがわれた部屋へと向かっていった。少しシャカはほっとしながら、明かりのついた家を後にした。
 小さな村から少しばかり離れた場所に広がる草原でシャカは五体を投げ出し寝そべった。ぼんやりと夜空を眺めれば、降り注がんばかりの星々が展開している。

「そういえば……ため込んでばかりだったな」

 充分過ぎるほど貯蓄され、シャカの中で圧縮された小宇宙。鬱々とした気持ちになるのは発散されることのないまま、今日まで来てしまったことも多少なりとも影響を与えているのかもしれない……そんな風に思ったシャカは億劫そうに起き上がった。
 慣れ親しんだ姿勢、結跏趺坐となる。ふうわりと意識を集中し、小宇宙を高めた。天を流れる河を泳ぐように心を解き放つ。渦巻く小宇宙が地上の星のように輝きを増す。
 全身を貫く刺激はシャカにすれば、表現しがたいもので、それこそシャカの身体を粉砕し、そして新たな息吹を与えるような生命力に満ちたものだ。実際、肉体が変化していくのをシャカは感じた。
 サガは愚かな真似だといったけれども、危険を冒して得た力はこうしてシャカの血肉となり、力となったのだと確信を得ることができたのだった。
 高揚とした気分のまま、シャカは仮宿に戻った。
 そんなに長い時間出ていたつもりはなかったが、時計の針は優に3時間以上進んでいたことに少々シャカは驚いた。サガはもう寝床についているようだ。シャカはなるべく音をたてないように注意しながら、髪や体についた土埃を落とすためにシャワーを浴びた。

「やはり、間違いない」

 浴室で裸になって確かめたことで、か細い体は修業以前のような、いやそれ以上に良質なものへとなり、細身であることには変わりはなくとも、シャカが羨んだ仲間たちと立ち並ぶほどまでになっていた。
 嬉しい。
 シャカはこの一文字に支配されていた。これでシャカにすれば理不尽なサガの言い分を覆すことができるだろうと、シャカはある程度、髪を乾かしたあと、腰にタオルを巻いたほぼ全裸に近い状態で、そっとサガの部屋へと向かった。ちゃんと修業の成果を見て欲しいとおもったからだ。
 昔、教わったようにきちんとノックをしたが、サガからの返事はなかった。そうっとドアを開けると、すでにサガは眠りについていた。
 無防備に眠りについているサガをわざわざ起こすほどのことではなかったけれども、如何せん今のシャカは昂揚感に満ちていたこともあって、相手のことよりも自分優先となっていた。

「サガ、サガ」

 シャカの方からは背を向けるように横向きで眠っていたサガに声を掛けながら、そっと身体を揺する。「うん」と小さな声を発して寝返ったサガは少しだけ目を開けて閉じた。

「……どう…した」

 半分眠りについたままのようなサガの生返事にシャカは手を伸ばし、「起きてくれ」と肩を揺するが。

「う…ん……わかった…から……おいで……」
「え?うわっ」

 寝惚けているのか、サガはそういうとシャカの手をぐいと掴み、そのまま引き寄せた。慌てたのはシャカだ。眠っているくせにサガは無駄に力強くて、手を振りほどこうにも解けない。というより、まんまとそのままサガのベッドの中に納まっているシャカがいた。

「ちょっ……一体、な……なんなのだ…これは…」

 混乱したシャカの頭の中で五月蠅いほど仏具の鈴が鳴り響く。首筋近くではすうすうと安らかそうなサガの寝息がかかるものだから、シャカはぞくぞくと肌を粟立たせる。ちょっとでも身を捩るように離れようとするが、さらにぎゅっと抱きすくめられて、ますます身動きがとれなくなるという。シャカは観念して、ならば逆にとサガに摺り寄ってみた。
 手に触れたサガの身体は温かい。そこから伝わる鼓動はひどく優しかった。

「サガ、だ」

 なつかしいサガの匂い。サガのぬくもり。今、少しの間だけシャカは感じたいと思った。


作品名:オトナダケノモノ 作家名:千珠