オトナダケノモノ
5.
突き抜ける様な青空の下で、爽風に戯れる草花を愛でていた。ゆったりと心地の良い感覚に満たされ、くつろいでいると、突如、雄叫びを上げながら、岩が落ちてくるというありえない状況へと目まぐるしく変化した。
それをシャカはぼうっと眺め続けて、ようやくこれは変な夢なのだとシャカは認識した。ドンという振動を感じて、ようやくシャカは目を覚ました。まだ少し、夢か現実か朦朧としていた。
「……?」
寝ぼけ眼で周りを見渡すとサガがいた。でも、なぜだかサガはベッドの上ではなく、下のほう……つまり、床の上で腰を抜かしたように座り込んでいたのだ。相当顔色が悪く、どこか具合でも悪いのだろうかとシャカは身体を起こした。
「――!待て、動くな、シャカ!」
ベッドからゆっくり足を降ろしかけたところで、ぴたりとシャカは動きを止めた。結構この体勢はきついものがあるなとシャカは思うが、サガはますます蒼褪めるばかりで、本当に具合が悪そうだった。しかし、有無を言わせぬ気迫もあった。
「その……だいじょうぶなのかね、サガ」
ぶるりと少し肌寒さを感じた。ああ、そういえばとシャカは自分が服を着ていないことを思い出した。昨晩は勢いでここまで来たけれど、冷静になれば随分と恥ずかしい恰好をしているとシャカはするすると掛け布を身に巻き付けた。
「じょ……状況を整理したいところだが、とりあえず、今から聖域にいかなければならない、わたしもおまえも」
動揺しているサガにシャカもまた困惑するが、とりあえず「わかった」としか言いようがなかった。
それから聖域につくまでサガは無口だった。シャカが聖域に戻ってきてから、本当に数えるほどしかサガとは口を聞いていない気がした。だが、少しばかり今は雰囲気が違うのは感じていた。
困惑、焦燥、動揺……そんなところだろう、今のサガは。超然としてどこか遠かった彼が急に目の前に現れたような変な感じがあった。シャカの一挙手一投足に反応してみせるのだから、内心シャカは愉快にさえ思えた。
「シャカ、おまえの聖衣は処女宮にある。聖衣着用の上、教皇宮へ向かうように」
サガは事務的に告げたあと、準備があるからと十二宮の手前にある広場で別れた。シャカはのんびりと石段をのぼりかけたが、白羊宮につくまでに見知った顔をみつけた。
「きみは―――」
軽く会釈をした人物はシャカをこの聖域まで運んでみせたヘルメスの使者であった。
「宮までお送りいたしましょう」
「……うむ」
一瞬迷ったが、彼の申し出に甘えることにした。途中で通り過ぎる宮主たちに一々足止めを食らいそうな予感があったからである。スッと差し出された使者の手にシャカは自らの手を重ねた。
「では参りましょうか……バルゴさま」
「ああ」
すっと一瞬の酩酊ののち、己が宮にシャカは足を踏み入れた。シャカをまるごと受けとめる胎内のごとくの宮。やっとほんとうに還ってきたのだとシャカは心が蕩けそうになりながら、かろうじて踏み止まって、使者に礼を述べた。
「もったいないお言葉。お詫びにもならないと思います」
全身で宮の空気を感じながら、シャカは恍惚とした表情で使者の言葉尻を捕らえた。
「なぜ……詫びねばならぬのかね?」
「それは―――どうしてお体の具合の悪いバルゴさまを無理にお連れしたのかと厳しくお叱りを受けたのです」
「別に具合が悪かったわけではない。あれは修業だ」
呼び寄せたバルゴの聖櫃を指先で愛おしみながら、使者の説明に耳を傾ける。シャカの小宇宙と呼応するように聖櫃が仄かに輝きを放ち、静かにその箱を開く。見事な黄金色を放ちながら、祈る乙女像が姿を現した。
「美しいであろう?」
喜怒哀楽すべてを備えたかのような美しい面をしたマスクを優しくシャカが撫でる。どのような者よりも綺麗だとシャカは思う。
「はい、とても――。ですが、たとえ修業と称しても、状態を見極めるべきではなかったかと。わたしはわたしの役目ばかりにとらわれて、優先させたのだろうと……そうお叱りを受けて、たしかにそうだったと反省するばかりです」
「そのように気に病む必要はないとは思うが。わたしとしては、ただ修業を中断せざるをえなかったことが口惜しかったことと、少々面倒な事態になっただけとしか思っていないのだが……」
バルゴの呼びかけに共鳴するようにシャカは静かに息を整えると、祈りを解いた乙女の像がシャカの身体に肌を重ねた。羽毛が撫でるような軽やかで艶めかしい感触に思わず声が漏れ出そうになる。
「ですが……あんな風に厳しくお叱りになることなど、なかった方です。わたしは大変な失態を仕出かしたのでしょう。ほんとうに申し訳なく」
「――もうよい。誰がそのようなことを言ったのか。わたしから訂正しておこう。誰かね、教えたまえ」
「それは……その……言えません」
もごもごと口ごもる使者にシャカは首を傾げた。
「これはおまえのためだけではないのだよ。勘違いされたままではわたしの矜持にも関わること」
「それでも、申し上げることはできません」
「ほう、なぜかね?」
剣呑な気を纏いながら、じりじりとシャカは迫った。気迫に押されて使者は後退り、ついには逃げ場のない壁へと突き当たったところで顔を引き攣らせていた。トンとシャカは壁に手をついた。
「普段はとても……お優しい方です。皆、お慕いしております。このわたしも尊敬しております。今回のことはほんとうにわたしの不手際によるもの。とても…仲間思いの方なのだと。申し訳ありません、これ以上は……失礼いたします」
「あ、待て―――やはり逃げ足は速いな」
追い詰めすぎたのだろう。使者は彼の特技を活かしてシャカの手から逃れた。跡形もなく消えて、壁についていた手をもとに戻し、「ふむ」と思案した。
「仲間思い……かね」
餓死寸前のシャカの状態を知るものなど限られていたのだから、考えてみればすぐにわかりそうなものだったな、とシャカは反省する。じきに集うその時にきっちり話をつければよかろうとシャカはにんまりと笑った。