青
そう、池上は思う。
幸いな事に、こちらの思う様に懐いた“可能性の芽”の内、頑強過ぎる体力を持つ植草はコート上を幾らでも駆ける事が出来、仙道は言わずもがな、福田は魚住が見たい、と言っているし―…後一人。
「越野は」
一つ気になる事がありそれを口の端に乗せた事で、打ち合わせの時間は長いものとなった。
前置きは長くなったが、長くなった打ち合わせの内容とは以下のものである。
文武両道の青き名門陵南。その中でもとりわけ強豪中の強豪と名高い彼等の属するバスケ部にはある、やはり常軌を逸した……陵南運動部員であれば誰もが一度は冗談でそれをやってみたらと思うが、けして実行には移さない……荒行さながらの訓練メニューが存在していた。
精鋭の部員達が日々練習を重ねる体育館を下り正門を出て、深草色の車両の停まるごく小さな駅を越え―…初見の者全てが息を呑み目を見張る、某湾の一面の海が広がる。
その大海はただ美しく青く、陵南(じぶんたち)も青だから、その意味でも良い色だなあと、そんな事を悠長に考えている場合ではなく、第一精鋭のバスケ部員達は海を用とする訳ではない。
―…幻のような風景を作る海とくたびれた人々を乗せる電車や車、
その中間に沿う砂浜を―…ただひたすらに駆けるのだ。
距離は、数キロ。学生たちの為に整備された運動場や、固くはあるがやはり整った学校付近のコンクリートに対し、美しい海を前にした、やはり美しく肌理の細かい砂浜は―…走り前に歩もうとする部員達の体力を着実に奪い去って行く。
このメニューの考案者は言わずもがな田岡。魚住、池上達が入部する以前から既にこの途轍もない砂浜でのランニングは実施されており、しかも部内では密やかに―…あれを走り切れてこそスタメンたる資格がある。
と、暗黙の了解に近いものが存在していた。
―…“神奈川に田岡あり”
過去の出来事である。
超名門の陵南の名将・田岡がそう言われていた若き絶頂の時代、彼の属するチームは強豪の某校と戦い大敗を喫した。
その原因は―…神奈川を遠く離れた地での試合による気候の違いと、慣れぬ場所での緊張もあっただろうが―…田岡達のチーム全体のスタミナ不足が第一の原因であった。
後半の中盤を過ぎても、試合開始時と何ら変わりのない動き……執拗なDFとコートを走り続ける相手チーム陣に田岡達は息が上がり足がもつれ、中には動けなくなり攻守の最中に立ち止まるメンバーも出た。
―…あの時にスタミナが足りていれば。
その悔恨の記憶からの発案らしい。超名門、陵南の部員達がベンチに至るまで正しく化物のような頑強な体力を持ち併せる理由は、体作りを最重要視した監督の方針が原因である。
魚住も池上も一年坊であった時は、同輩達が海に向かい嘔吐し、堪らず砂に転がり動かなくなっている姿を(誤ってぐにゃりとそれらを踏まないようにある程度は注意し)横目で見ながら、文字通り死に物狂いで上級生達に付いて行き―…結果、どちらも陵南部内で屈指の体力を誇る体となっている。
そして彼等が二年となった際には、“可能性の芽”の一人である植草が、他の、自分より長身の三名……仙道、福田、越野を遠くに追い遣って、この砂浜の想像を絶するランニングを、何と魚住、池上の僅か後方をいつも淡々と走っている。
あいつ等や他を置き去って、一年がこの特訓を耐え、しかも毎回トップを駆ける魚住達二名に近付く事など前代未聞である。発汗はしているが見事に走り続ける植草の様に池上が、「すげえな、お前」と言うと、だからお二人は良いんすよ、俺がこうやってトップに来ても妬まないし、励ましてくれる。と応じた。
植草は、少し笑っていた。
―…そのまま魚住と池上と植草……地獄と例えても良い砂浜での鍛錬のトップ集団は何も話せずひたすら駆け続け、ゴール……陵南高校の目の前の砂浜に着き、暫く止まる。
目を閉じ、黙っていても止まぬ肺の苦しさと器官から血液がこみ上げて来るような感覚に耐える池上に対し、魚住と植草は早くもストレッチを始めている。
(―…俺が注意を払って来た時から、普通じゃねえと思ってたが、どれだけスタミナの塊なんだ、こいつは)
その主である植草は体を解しながら遠く海岸線を見ている。どうやら他の者達―…特にこの走りっこのスタミナ勝負については仙道よりも植草に対し挑む心を剥き出しにし、走る前に彼を睨み付けていた福田の行方が気になっているらしい。
やがて彼等三人の視界に点が見え始め、離れていてもこいつだ、と分かる極めて特徴的なシルエット……逆立った頭の仙道が大柄な体を引き摺るように走って来た。
―…流石にこの天才であろうと疲労を覚え訓練なのであろう。いつもよりも発汗し、美貌が歪んでいる。
しかし自分達と植草に次ぎ、ゴールまで辿り着いた事は
―…流石仙道、である。
魚住達の立つゴールに到着し、きついな……と浅い呼吸を繰り返す仙道から、更に数分経ち―…気温の低い時であれば先輩の魚住達の汗が引く頃に大抵は福田と越野が同順で―…並んでやって来る。
その光景は大半が―…その時もそうだった。越野が、これだけの距離を走って来たのに途切れ途切れに……それは時折無意識に―…何かをぽつぽつと呟いて、真横の福田を小突いている。
―…相手の福田はむっとして、あの極めて独特の顔で越野を少し睨むが、そのまま前方を見てまた走り始める―…この繰り返しである。
―…何やってるんだあいつらは。
呆れた表情の魚住が呟くが、恐らく福田は越野の文句なり何なりを聞く事で、折れそうになる意識と意欲を腹立たしさと共に吹き返し足を前進させ、越野は越野で―…何か口にしていなければ“保たない”のだろう。
―…陵南の“可能性の芽”及び現スターティングメンバ―、シックスマンの中でこの二人……福田と越野の体力についてかねてから魚住と池上は少々懸念していた。
―…福田はまだ良い。
そう、魚住は語る。
あいつはバスケットを始めてやや経験が浅い、それにあれだけの大柄に頑強な体格だ、まだ何とかなっていくだろう。
―…越野は?
(―…危ない。)
と思う。魚住との話の内容でなく、こちらに向かって来る越野が、汗の量が少なく、離れた位置からでも顔色が……青いを通り越して白くなっている事がはっきりと分かる。
おい、やばいんじゃないかと咄嗟に池上は思う。無言のまま横目で魚住を見ると、彼も黙ったままだが植草と共に、走る……足を動かしている越野を凝視している。
真横の福田は己の苦しみで手一杯で隣の同輩の様には気付かないようである。
もう止めろ、と池上が声を上げようとした瞬間、青の浜に声が響いた。
「……走らせましょう、ここまで」
その声の主―…仙道も越野をじっと見ているが、視線の気配が彼の状態を憂う他と異なった。
どこか、ここに……越野に自分の元へ来て欲しいような、そう見える眼差しのまま続ける。
「……来れると思うか、あの顔色で」
「―…越野は、勿論俺よりも、誰よりも気がしっかりしてるから……来ますよ。必死で。」