雪の降る町
夢と現の狭間で目の前の少年の名前を不思議そうにつぶやく。そうするうちに少しずつ覚醒してきた。
「ああ……そうか」
そこが職場であることを思い出しながらも両目を片手で覆ってしまった。そんなスティーブンがまた眠ってしまいそうで手を添えると、「わかってる」というように空いている方の手で制された。二日酔いの人が小うるさい隣人を黙らせるみたいに。
起こすという役目は終えたことにして出ていくべきなのか。迷っていると目隠しをやめて室内を確かめたスティーブンが安いおもちゃみたいに跳ね起きた。
「なんだこりゃ」
「なんだって……自分でやったんじゃないっすか」
眼以外に特別な能力なんてないレオナルドに能力の“おもらし”があり得るのかはわからなかったが、仮眠室には一人しかいなかったのだから間違いない。
やった本人も信じられない様子で氷の発生源である足元や被害範囲をせわしなく目で確認している
「なんかうなされてましたけど大丈夫っすか。もうクラウスさんとギルベルトさん出勤してますけど呼びますか」
「いや、大丈夫だ」
絶対大丈夫じゃないだろ、コレ。
「顔を洗ったらすぐ行く。ここは、すまないが暖房の出力を最高にしといてくれ。どうせ日中に仮眠とるヤツはいないからその間に片付けるよ」
無理に平常を装ってベッドを降り歩き出そうとした途端にふらついた体を受け止めた。スティーブン自身もベッドの支柱を掴んだのでレオナルドが支えなくても転びはしなかっただろうけれど。
触れた手が冷たくて、でも凍っているわけではなくて、そんな当たり前のことに安心した。
「体冷えてるんすよ。ここのことは俺がやっとくんで暖まっててください」
必要なくても支える手を離さなかった。
脱いであった背広を引っ掴んで暖かな隣室に連れ出し、レオナルドだけ仮眠室に戻って暖房を強める。天井の霜が水っぽい塊になってぼたぼた垂れてくるのでベッドの毛布を丸め、探してきたレジャーシートを被せて水濡れを防いだ。風呂場みたいに防水ではないにしろ、元倉庫を改造した壁紙もない部屋なのでなんとかなるだろう。ならなくても事務所直結の部屋で待機しているツェッドは風を操れる。良い人なので頼めば乾燥の手伝いぐらいしてくれるだろう。
忙しく動き回って落ち着くと、すでにスティーブンは執務机に座っていた。湯気の立つカップに口をつけながらだったけど。
「湯たんぽとか要ります?」
尋ねるときまり悪そうに「結構だよ」と断られた。
その机の片隅にはやっぱり毛皮の男の絵があった。
事態が急変したのはその三日後。マリーがいなくなったという連絡を受けて現場に駆け付けた。
GPS信号は連絡を受けた時刻で途絶えている。それまで一定時間ごとに記録されていた足跡を辿った道中で彼女のボディガード役だった女性の遺体が発見され、携帯は件の公園の噴水からポシェットごと発見された。
「僕が見ます」
いつも首に提げているゴーグルを装着してレオナルドは進み出た。今ここで何か見つけられるとしたらきっと自分だけだ。前回より事件発生からの経過時間も少ない。至近距離で見たマリーを、マリーのオーラを思い出せ。沢山の人の気配の中から掬い取れ。
瞼の裏に呼び起こした記憶が薄れないよう集中してゆっくり瞼を開く。前回の事件があった場所に薄っすら残るマリーのオーラが続く先を探して。
手袋越しにも冷たい地面に手をついて低いところから痕跡を追った。犬が臭いを追うときにも地面を嗅いだりするけど、人のオーラもまた何かを媒体にして残るものだ。空気であったり、地面であったり、他人の体であったり。だけど空気はすぐにどこかへ吹き飛ばされてしまうので地べたに這いつくばることになる。
「……あった」
「本当か少年!」
「はい、でも、……これ、林の方に向かってません」
公園の出口まで続くオーラの残滓を見届けて地面から顔を上げると、スティーブンはすでに見えないはずの行方を知っているようだった。
彼の視線の先にあったのは最初にここへ来たときと同じ、十字架を掲げた教会だった。
スティーブンは背中にレオナルドを庇いながら長い脚で教会の扉を蹴破った。
周囲への聞き込みによれば今日は無人のはずの教会に人の気配があって、扉の隙間にも確かにマリーを含む複数のオーラが絡み合って残っていたのだ。血界の眷属の仕業と断定してのクラウスを入れたスリーマンセルで飛び込んだ。
乱暴に開いた扉の立てた音だけが響く。そこは何の変哲もない教会。真正面の祭壇の向こう側で十字架をモチーフにしたステンドグラスが光を透かして通路に絵柄を浮かび上がらせていた。
何者もいない。無人の。静かな。
「います」
鋭く叫んだのはレオナルドだ。神々の義眼に幻術は通用しない。
「祭壇の前に、マリーだけじゃない、みんないます!」
義眼を通した視界では子供たちが絵本の読み聞かせを聞くみたいに大人しく座り込んでいる。その子供たちの目の前に男はいた。紅い羽根のような―血界の眷属の証であるオーラを広げて。ちょうど講話をする先生みたいだった。
レオナルドの言葉で一気に緊張感を高めた二人の上司が戦闘に備えて身構える。その途端に軽い笑い声がして、二人の目の前の景色が歪んだ。何もないように見えた空間に突如子供たちと毛皮を着た美しい男が出現する。
「なんだぁそりゃあ……結構上手に誤魔化せてたと思うんだけど、バレちゃうの?」
幻術を解いた毛皮の男はあっさり子供たちのそばを離れた。散歩でもするみたいな軽い足取りで何の気負いもなく歩いてくる。気負いなんか必要ない自信がそこにある。人類が自分たちに対抗できるなんて微塵も思わないのだ。
道端で猫を見つけた子供が驚かせて逃がさないよう静かに近づくのに似ている。キレイな顔に穏やかな表情を浮かべて、まるで久しぶりに再会した友人みたいな気安さで。
無言で拳を構えるクラウスの意図を察して背後に隠れてポケットの携帯に手をかけた。それは武器だ。血界の眷属に対抗しうる唯一の武器。
神々の義眼でもって敵の諱名を看破し、それを受け取ったクラウスの技で“密封”する。神々の義眼を持つ凡人・レオナルドがライブラに貢献できる最大の役目だった。
「んんー、キミたちが探してるのはこの子たちでしょ?まだ何もしてないんだけどな」
「子供が拉致された時点で人類にとっては大問題だ」
「そう?みんな自分の足でボクを選んでついてきたんだよ?」
男が離れても祭壇の前の子供たちは身動きしなかった。魅入られたように美しい男の姿を目で追うばかりだ。
ゆっくり男が近づいてくる。いつでも攻撃できる体勢で二人は身動きせず、スティーブンは会話を続けた。レオナルドが諱名を読む時間が必要だった。
「過去にも各地で子供の集団失踪事件があった。それもお前の仕業なのか」
「いつどこであった話をしてるのさ」
否定も肯定もしない男に硬い声であまりにも具体的な言葉が返る。
「…………三十年前の冬、イギリス北部だったらどうだ」