雪の降る町
男はこれから間もなく密封されて口もきけなくなるはずだった。そのための時間稼ぎであり言葉の信憑性もわからない。本気で捜査の足しにしたいという意志のないやりとりだ。それには不釣り合いな発言にみんな―クラウスも、毛皮の男も、諱名の解読に集中していたレオナルドさえスティーブンに意識がいった。
「んーんー、そんなこともあったかもね」
面白そうに首を傾げ、マリーたちを顧みてポンと手を打った。
「あ、あったあった。そうだねえ、あの時も今回みたいに一人だけ獲り逃しちゃってさ、結局もう一度連れに来たら牙狩りに追い返されちゃった」
その瞬間、冷え切った空気が頬の横を駆け抜けていった。開け放たれた扉から突風が吹き込んだのかと思った。一瞬にしてあたり一面冷気が広がり男の喉元まで氷の槍が伸びる。それは届かなかったけれど。
「スティーブン!」
叫んだのはクラウスだ。常に冷静な友人の感情的な行動に、止めようというよりも驚いて声が出た。
けれど一度仕掛けたものは止れない。
男の反撃を二人がかりで防ぎ、また攻撃を仕掛けた。冷静さを失った行動の後でも連携の取れた動きを繰り出し一歩、二歩と男を後退させる。その間がチャンスだった。
諱名を入力してクラウスに送信することだけに特化したアプリに名前を打ち込む。
「ボクこういうのは得意じゃないんだよね」
きれいな顔にいくつかのかすり傷を受けながらも男はのんびりした口調を崩さない。
「どっちかっていうとさあ……」
攻撃を仕掛けていた二人から軽く視線を外し、ピタリとレオナルドに目を留めた。視線がかち合ったレオナルドの手が一瞬止まる。
その瞬間高く跳躍して二人の攻撃をすり抜け、レオナルドの背後に着地した。
「マズいッ」
靴底から生み出した氷の塊を足掛かりにスティーブンが跳ぶ。クラウスもまた大きな体で機敏に振り返ったが、男が羽織っていた毛皮を広げる方が早かった。
「殺さないよ。キミ面白いことやってたもんね」
毛皮の内側が窓のように真っ白な光景が広がっていた。思わずその正体を見ようとしてしまうレオナルドに“窓”が襲い掛かる。
「ちょっと待っててね、後で迎えに行くからさ」
呆然としながらもレオナルドは指を動かし続けた。続けたからこそ逃れられなかった。
「レオッ…………!」
スティーブンは夢中で手を伸ばした。紙一重で吸い込まれていく体に指がかかる。
だけど窓から向こうに乗り出した体は重力に引かれて落下していく。窓の向こうは地べたではなく、どこか高さのある場所だった。不安定な体制でなんとか掴んだ服を握りしめ、引き留めようと踏ん張った足が耐え切れずに床から離れる。そうなったら誰にもどうする術もなかった。
もつれ合った友人と部下が正体不明の空間に落ちていくのを見送ったクラウスのポケットで携帯のメッセージ受信音が鳴ったのだった。
死ぬときはとても寒いのだろう。死体には体温がないし、寒いと漠然とした死を意識する。その前に感覚がなくなったりするのかもしれないけど。
だから寒くて体が痛くてむき出しの頬の感覚が麻痺してきたので、死ぬのかと思った。
「おい、起きろレオ!おい!」
頬を叩かれて気が付くとスティーブンの腕に支えられて吹雪の森の中にいた。どうやら生きているみたいだ。お互いに。
「………ヤツは?クラウスさんは?!」
首をめぐらせても木と雪ばかり。吹雪のせいでほんの数メートル先までしか見通せない。それでもこの眼ならば、と開いた義眼に手で目隠しをされた。
「消耗するからそれはいい」
「スティーブンさん……でも……」
「クラウスもヤツもいないよ。ここは幻術の中でもなさそうだ」
スラックスのポケットから取り出した携帯は電波圏外だったが、時間はそう経っていない。
「目を凝らさないで見てくれ。ここは現実なんだろう?」
集中して無理な使い方をしなくたってそれぐらいは看破できた。四方を見渡しても針葉樹林と雪の粒しか見えない。神妙にうなずいた。
「よし、それならここはヘルサレムズロッドの外と考えた方がいい。ヤツに使われたのが単純な空間連結術式と仮定して、体感からいってここは永遠の虚とも異なる。とすると、ヘルサレムズロッドでこんな地域はなかったはずだから、街の外に飛ばされた可能性が高い。まず身を寄せられる場所か電波の届くところを目指して移動しよう」
身体を支え起こされ、身を寄せ合って歩き出した。視界が頼りにならないので、足跡に背の高い氷のとげを生やして進んだ。雪に埋もれない程度の大きさの目印だ。茨の道を背負いながら一方向を定めて進んだ。電波が届かないだけで、磁場は安定していたので磁石が使えたのが救いだった。
小一時間も彷徨った頃、
「あ、あそこ!」
木々の間に薪割り小屋があった。吹雪で視界の悪い中でも人工物があるのはすぐにわかった。
「よし、この吹雪が弱まるまで一旦留まろう」
逃げ込んだ小屋には本当に何もなく、まだ使われているのか放棄されたものかもわからなかったが雪は凌げた。壁板の隙間から吹き込む風には我慢した。
動きを止めるとすぐに体温が下がっていくので暖を取れるものを探したけれど、そこには毛布も何もなかった。
事務所を出た時にそれぞれ羽織ってきた上着は所詮街中を歩くための装備だ。足元もぐちゃぐちゃだしコートもぐっしょり濡れて重い。
「こういうときにアイツがいればな」
「ああ、アイツっすね」
思い浮かべるのは火を操る仲間の顔だが、クラウスとスティーブンが揃って留守にする事務所を任せてきたのだ。もちろん他の仲間と一緒に。
仕方なしに暖の取れそうなものを探したが、湿った薪とスティーブンが嗜み程度に携帯しているライターしか出てこない。本人は喫煙の習慣がないので接待時に活躍する火種だけだ。
「火は諦めるしかないな」
「濡れたものって着てるとまずいっすか?」
「ああ、でも薄着でいるわけにもいかないから絞れるだけ絞って……」
水分を含んでいるお互いの衣服を見下ろせば、確かに濡れているが半ば氷ついていて絞るどころではない。
「やめておこうか」
「はい……」
結局なるべく風の当たらない場所で肩を寄せ合って座った。
「何の足しにもならないけど、こっちのコートに入るかい」
広いコートの懐を広げて提案されてお言葉に甘えた。身を寄せ合っていても体と体の間を通り抜ける隙間風が気になって仕方なかったからだ。
小さくなって小脇に潜り込む格好で肩を抱かれて、こんなに上司に近づいたことはないという程近づいている。そうしてみると彼のスーツの生地が思ったよりも頼りないことに気づいた。当たった腕に体温が伝わってくる。
レオナルドの方が体温が高かったけれど、確かに血の通う熱を感じて手袋を借りた時のことをぼんやり思い出した。氷を操る術の使い手でも冷血漢のように思う一面があっても、同じ体温を持つ人間なんだな、なんて。
借りた手袋は諱名を入力するときに外してこちらで目を覚ました時につけ直したので今も手を包んでくれている。
一方、これの持ち主は素手で雪の中を歩いてきたのだ。そのことに気づいて手袋を外した。
「あの、今更なんですけど、手袋返します」
「ああ、ここから助かったら洗濯して返してくれ」