雪の降る町
洗濯機で洗っていいんだろうか。洗剤だって安物しかないんだけど。
「普通に洗濯機でやっちゃっていいんすか?」
「試してくれてもいいけど言い訳は聞かないからな」
こんなことだったら実家を出るときにもうちょっと家事を習っとくんだった。
扱いに困る手袋を揉みながら見つめていると「とにかく今はつけておけよ」と言われたけれど、これを必要としているのはやっぱりスティーブンの方だろう。長い指が赤くなっている。
少しでも暖められないかと思って自分の両手を脇に挟んでみてから「失礼します」と控えめに断って両手でスティーブンの手を包み込んだ。体温がないみたいに冷たい指先に自分の熱を染み込ませるように時間をかけて暖め、自分の手の方が冷えてきたら摩擦熱を狙ってこすり合わせた。焼け石に水だったけれど。
随分年上の上司はされるがままでもみくちゃにされる手を見ていた。
どれほど暖められたかはわからないけれど、多少はマシになっただろう。ずっとぴくりともしなかった指先がやんわり握り返してきた。手のひらを合わせて指を交互に重ねて握ると相手の指の先が自分の手の甲に触れる。そうするとまだまだ冷たいな、と思う。そんな手遊びの何が面白かったのか、スティーブンはゆるゆると握ったり緩めたりを繰り返して手の感触を味わっていた。
子供っぽい仕草だ。
「スティーブンさん」
「なんだ」
「さっきの、三十年前の事件のこと訊いてもいいっすか」
なんとなく訊くなら今という気がして踏み込んでみた。三十年というとちょうど子供の頃のことなんだろう。話の着地点には予感があった。
「君って結構物怖じしないよな」
少し間があって、抱えた膝の間に白い息をこぼしながら語り出した。コーヒーにミルクを垂らしたみたいに、いつも冷静で計算の張り巡らされた横顔に幼さが混じった。
「僕の子供の頃の故郷の話だよ。まだ普通の子供だった。むしろ人より発達が遅くて仲間に置いて行かれることもしょっちゅうだった」
「今からじゃ想像つかねっす」
「誰だってほんの幼い頃とはまるで違った大人になったりするもんだよ」
レオナルドは人外の力を手に入れてしまった以外は特別変わったことなどないので「そういうもんすか」としか言えなかった。
「事件の被害者はそんな仲間たちだった。何かが一つ掛け違っていたら僕も被害者だっただろう。たまたま鈍くさくて、いじけた野郎で、転んだ自分を誰も心配してくれなかったのに拗ねて転がってたから助かった。みんな先に教会に行ってしまった。」
追いかけなかったらそのうち誰かが心配して引き返してきてくれると思っていたのだ。置いて行かれてもみんな友達だと思っていたし、いつもならすぐに誰かが様子を見に来てくれた。そういう優しさに甘え切った子供だった。
だけど、その日は待っても待っても誰も戻ってこなかった。雪の日だったから尻は冷たくなるし、なんだかもうすべてが嫌になって家に帰ろうかと思った。そんなときに教会の鐘が鳴ったのだ。教会には今仲間たちしかいないはずだから悪戯でやったらな大目玉だ。だけどみんなそういうヤツじゃない。
帰ろうとしていた足も止ったが様子を見に踏み出せもしなかった。そのとき教会の扉が開いて男が出てきた。記憶と少し格好に違いはあるが、絵を見た時に間違いないと思った。同じ男だった。
「男はやっぱり礼拝帰りの住民と何ら変わらない自然な態度で、だけど明らかに異質な容姿だった。田舎町にあんな美しい男はいなかったし、具体的には言えないが人間らしくない雰囲気があった。子供の方が敏感というから、僅かでもオーラのようなものが感知できていたのかもしれない。
そのままそこに立ち止まっていたら彼女のような道を辿って一緒に捕まったのかもしれない。だが、その時は偶然にもある女性が街に滞在していたんだ。
牙狩りの、エスメラルダ式血凍道の師匠になる人だ。恐らく、当時はまだ今ほどの力を持っていなかった奴は師匠一人に苦戦して子供たち諸共どこかへ消えた。
残された子供を回収しに来る可能性はやはり師匠も考えたようだった。今の僕らはライブラという組織で動いているが、師匠はそうじゃなかった。しかも、ちょっと突き抜けた性格だったもんで、勝手に僕を弟子にとることを決めて親を言いくるめて連れ出された」
「牙狩りの人ってみんなそんなんなんすね」
思い出すのはザップとツェッドの師匠だ。やっぱり突き抜けた性格で、突然連れてきたツェッドを一方的に「預ける」と言ってライブラに託してどこかへ行ってしまった。レオナルドらも一度だけ会ったことがあるが、それはもうとんでもない人物だった。ザップ曰く“ボロ雑巾”のような人間かどうかも怪しい見た目で人語すら話さない人物を思い浮かべていると「さすがにうちの師匠は見た目上は普通のヒトだから勘違いしてくれるなよ」と釘を刺された。
「強引ではあったが、今は師匠の判断に感謝してるよ。技も、それ以外でもかなり鍛えられたからな」
それ以外って言うのは電話一本で人を脅したり何日も徹夜で鬼のような書類を捌いたりすることも含まれているんだろう。なんとなく察して口を閉じる。
「忙しい人で、世界を飛び回ってたから故郷にはずいぶん帰ってない。そのうち師匠と離れてからもクラウスと一緒にライブラとして忙しくしていたし」
「そうして例の血界の眷属を探してたんですか」
「どうだろう」
戦う力を手に入れたときは仇討ちが頭をよぎったが、ヤツではないたくさんのバケモノと対峙しているうちに固執する気持ちはどこかへ隠れてしまった。敵は一人じゃない。目の前に立ちはだかり世界に害をなす全てのものだ。いつか出会うかもしれないと思ってはいたが、わざわざたった一体のことを探していたわけじゃない。
気づけば何十年も過ぎていたし、最早攫われた仲間の生存に夢は見ていなかった。
「もう、過去の友人たちのような子供が出なければいいとは思っていたよ」
父から「お前は助かってよかった」と言われた。何がいいのか少しもわからなかった。
近所の同年代の子供が一度に消え、一人だけ助かったお蔭で妙な勘繰りにもあった。バケモノの仲間だとか、他の子供を犠牲にして一人だけ逃げ出したんだとか。冷静に考えれば馬鹿なことだけれど、可愛い我が子を喪って亡骸も戻らない親たちは何か理解できる存在を恨みたかったのだ。大人になった今ならば納得には至らずとも理解はできる。
そんな状況を見透かした上で師匠は親元から生き残りの子供を奪ったのだ。
「…………だが、未然に防ぐのは難しかったな」
対策をしたつもりだったのにマリーは連れ去られてしまった。今こうしている間にも事態は進行しているだろう。頼みの綱の携帯も繋がらないので何もわからなかった。記憶を覗き込む瞳の中で雪が静かに世界から色を奪っていく。子供たちの消えた街は精彩を欠いて、春は来ないかのように思われた。
虚ろなスティーブンの眼前にずいっと携帯が差し出される。
「大丈夫ですよ。俺ちゃんと送信しましたから」
ディスプレイには長たらしい諱名と、送信成功の印が表示されていた。
「クラウスさんなら絶対に大丈夫です」