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ワルツ

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 最初はそう、髪についた葉っぱを取ってもらったことだ。
 戦闘に巻き込まれたどさくさで助けられる以外で触れられたのは初めてだった。といっても、髪の毛だけだけれど。
「少年、クラウスの温室に行ってきたのかい」
 摘まんだ葉っぱを見せられた。
「陰毛だから絡まりやすいんだよなー?」
 すかさずソファでふんぞり返ったクズ先輩が野次を飛ばしてくる。そのお蔭ですぐに忘れてしまったような、ほんの些細な出来事だった。

 その次が突き指した時のこと。もっと酷い怪我もしょっちゅうなので反射的に「イタッ」と声に出ただけで、別に心配してもらうことなんか何もなかったんだけど。以前なら一言もなく無視だってあり得た場面で、手を取って確認された。見てわかるほど腫れていたわけでもない。気を付けるよう言われて終わった。
 そんな大したことない積み重ねがあって今がある。

「まつ毛がついてる」
 広いトイレの洗面台の前で長い指が頬を撫でた。
「あ、ども」
 ほんとについてたのかな。嘘なのかも。疑いながらも理由をつけて触られることに慣らされ切っていた。僕としては理由がなくたってよかった。でも理由もなく部下とスキンシップを図る人じゃないから、やっぱり理由は必要だったのかも。
 なかなか頬に添えられた指が離れていかなかった。横目で鏡を見ると、スーツ姿の長身の男前が背の低い糸目のちんちくりんを口説いてるみたいだった。映画のワンシーンを雑にコラージュしたみたいだと思う。もちろん適当に切り抜いて貼り付けられたのが僕だ。そんなもの作ったって誰も喜ばないけど。
「あの、そろそろ戻った方が」
 そうしてるのも悪くないんだけど。
「ザップさんにクソが長いって馬鹿にされるんで」
 動き出そうとしたら上司はスッと身を屈めてきた。唇に、軽く唇を当てられて形のいい耳がアップになる。ちょっと気になっていた頬を横切る傷の端っこがよく見えた。
「え」
 相手はちょっと肩同士がぶつかったみたいな何もなかったようなそぶりで身を翻して「ゆっくり用も足せないなんてアイツは小学生か」と話の続きをしながら歩いていく。
 夢だったのかも。一瞬のうちに僕だけが見た白昼夢。幻術の類は効かない目を持っているにも関わらず、幻術にでもかけられたみたいだった。
 追及するタイミングを逃したまま「まったくですよねー」なんて同調しながらパーティー会場に戻ってしまった。間抜けなことに。

 衝撃的な出来事でも時間が経つにつれて「勘違いだったのかも」と思い始めた。パーティーの日以来、髪や顔にゴミがついていることもなかったし、細かな怪我もしなかった。転びかけたところを支えられたり、熱を出して肌で計らせる機会もなかった。しばらく続いた軽くて頻度の高いスキンシップが減るにつれて、キスの件も記憶から薄れていった。
 だけど、平和ボケしているときほど何かが起こるものだ。

 みんなが不在の事務所のソファから長い足がはみ出している。仮眠をとっている上司だったので、毛布を持ってきた。まったくの善意で、熟睡していると疑わず。
 そうしたら近づいたところを狙いすまして腕を引かれ、倒れ込んだ体を器用に抱きすくめられた。
 後はもうお察しだ。前回とは比べ物にならないぐらい濃厚なヤツをかまされて呼吸困難で腕を叩いてやっと解放された。口の中に性感帯があるっていうのは聞いたことがあったけど、自分の舌で口の中をあちこち触ってもわからなかったのに、本当に気持ち良かったので妙に感心してしまった。そんな斜め上の思考に走ったのはもちろん現実逃避だ。
 唇が離れても身体には腕が絡まっていて気だるげな男前と至近距離で渡り合わなくてはならなかった。直前までは確かに眠っていたんだろう。襟元を緩めて髪も少し乱れている。色気のある人だ。
「お…………お疲れですね」
 色気のないセリフしか出てこなかった。色気のある言葉を返すのも問題だと思うけど。もしかしたら寝ぼけて恋人と間違えた可能性も捨てきれなかったのだ。
「叫んで逃げたりしないのかい」
 ダメだ。会話にならない。やっぱりこの人疲れてるんだ。第一逃げようにもしっかり腰を抱いてるじゃないか。
「叫んでいいんすか」
「呼んでも誰も来ないと思うけどね」
「デスヨネー」
 女の子に悪いことする人みたいだな。お喋りの途中からまた後頭部を押されて顔が近づく。口を開けなけりゃいいのかな。真一文字に引き結んで唇をピッタリ閉じたら、そこに啄むようにキスされた。口の中をかき回されるよりかは背徳感が少ないけど、これはこれで気持ちいいもので困る。
 相手の容姿のお蔭かそう悪い気もしなくて、ひたすら驚きと、漠然とした「マズいヤツだ」という考えがストップを訴えていた。とはいえ、抵抗するにしても、腕で胸を押し返すのが精一杯。それすら成功していなかったけど。
 頑なな唇をほどくように色んな角度から触れられ、軽く吸いついたり、舌先で突かれたりしている途中で携帯が鳴ってようやく腕がほどけた。危うく陥落するところだった。こなれた大人は恐ろしい。
 上司はやっぱり何食わぬ顔で電話を終えた。それからネクタイを直し、カフスボタンを留める。それをしゃがみこんだ床から見上げた。腰を抜かしたとか、前屈みの事情があるとかいうことは誓ってない。鼻息をかけまいとして呼吸を止めていたせいで、脳みそが酸欠で、何もする気にならなかったのだ。
「ちょっと出てくるけど、君は顔を洗ってきた方がいいな。いかにも“何かありました”って顔をしてるから。ザップやK・Kあたりがくると厄介だぞ」
 ありがたいご忠告を残して本当に出て行った。教えてほしいのは今自分がどんな表情かってことよりも他のことだ。
 今度ばかりは勘違いや夢で片付けられない。苦悩の日々の始まりである。

 一人で悩んでいても答えなんか出せないので再び二人きりになった時を狙って尋ねるつもりだった。が、しかし、こういう時に限ってチャンスが巡ってこない。
 いつでも他に誰かしらが一緒で、上司が一人で仕事をしてタイミングに出くわしても邪魔できる空気ではない。
 困り果てて覚悟を決めた。
「飯、一緒に行きませんか」
「いいよ」
 あっさりオーケーをもらってゆっくり話のできる店に連れていかれ、さあ問い詰めるぞ、と気合を入れた途端。
「君は本当に迂闊だよな」
 出鼻を挫かれた。そこで今夜の主導権争いが決した。僕は早くも敗北したのだ。
「何でわざわざ自分に一方的に気のある男をディナーに誘った挙句、店までエスコートされてるんだ」
「別にエスコートされたわけじゃ……」
 フツウに案内された店までついてきただけですけど?
「勧められるまま酒まで飲んで。君だってこの建物がホテルだってわからないわけじゃないだろう」
「それは知ってますけど、それが今どうして関係あるのかはさっぱり」
「わからない?」
 わかりたくない。わかりたくないけどわからないでもないので口を噤んだ。
「……あれ?ちょっと待ってください。え?え?今、気があるとかなんとかって聞こえたんすけど」
作品名:ワルツ 作家名:3丁目