比翼連理 〜外伝2〜
2.飢望
「俺に悪夢を見せるな、ヒュプノス」
優雅に横たわりながら、床の一面に広げられた四界の地図に向かって、小さな赤い球を投げつけて遊んでいたヒュプノスを見つけ、タナトスは開口一番告げた。
「……退屈しのぎには丁度よかっただろう?我が兄弟よ」
ヒュッと腕を振り被ったヒュプノスの手から赤い玉は離れ、空中で弧を描いた。重力に逆らうこともなく、赤い玉はほどなくして落下した。床に叩きつけられた赤い玉は耳障りな悲鳴を上げて砕け散った。地図には赤い染みだけをじわりと広げて。
点々と染まる赤い染みは天界、冥界、地界、海界に方々に散らばっている。適当に投げられたように見えたが、ヒュプノスは意図して狙い定めたものなのだろうということが、その赤い染みの場所を確認するとわかった。
「おまえは……ハーデス様にも悪夢を見せたのか?」
苦虫を潰したような顔で睨めつけるタナトスをカラカラと愉快そうにヒュプノスは笑った。目を細め、鈍く光る金色の眼差し。なんとも厭な笑みだと思いながら、もう一度ヒュプノスを問い質した。
「どうなんだ?答えろ」
「さぁ?どのような夢も、その夢の主人次第だ。私はただ眠りに誘うだけ。おまえが悪夢をみたのはおまえが抱える後ろめたさからだ。万一、ハーデス様が悪夢を見たとしても同じこと。私のせいにするな、タナトス」
ふうわりと風を纏うような笑みをタナトスへと向けるヒュプノス。その風が春風のようならばよかったが。
「ハーデス様にもおまえは同じことを言えるのか?」
ヒュプノスの顔に張り付いていた嘲弄の相が消えた。輝く金色がくすんだ琥珀色へと変色した双眸はタナトスから逸らされ、空中を彷徨い泳ぐ。
「……おまえのように愚かなことを口に出したりはしない……あの方は」
「そうさ、ヒュプノス。たとえハーデス様はおまえの仕業だとわかっていても、目をお瞑りになられるだろう。いや、そも無関心かもな」
「黙れ、タナトス!」
投げつけられた赤い玉を避けることもしなかったため、タナトスの頬で弾けた玉は皮膚を切り裂かれ、流れ出た血のように頬から滴り落ちた。
「……満足か?」
哀れむような眼差しでヒュプノスを見るタナトスに、顔を俯かせたヒュプノスは唇を震わせながらも口角を吊り上げた。
「おまえは望むものを手にしたというのに。なぜ私は手に入れることができない?なぜ、おまえだけなのか――教えてくれ、タナトス」
両手で顔を覆い、崩れ落ちるヒュプノスの肩に手を乗せたタナトスはその震える心に寄り添った。
「ヒュプノス、俺は手に入れたわけではない。おまえがそう思っているうちは心満たされぬ。俺はそう――長年の呪縛から解放されただけ。自身を縛っていた糸を断ち切ったまで。おまえもそうできれば楽になれる。でも、おまえはできない……おまえがおまえである限り。それをおまえが望み続ける限り。憐れなヒュプノス」
慰めるように金の身体をタナトスが抱き締めた。まるで自分自身を慰めるように。
すると次第に小刻みに震えていたヒュプノスの肩が上下へと揺れた。怪訝に思い、顔を覗き込んだタナトスは愕然とした。ヒュプノスは笑っていたのである。
「クックッ…本当に?解放されたと、そう思っているのか……タナトス?そんな単純なことか?甘いな、本当に」
危ぶまれる笑みの下に潜む悪意。慄いたタナトスはヒュプノスから飛び退くように離れた。
「どういう意味だ?何を考えている?おまえは…」
「片翼の悦びは己が悦び。片翼の痛みは己が痛み……私だけではない、おまえもまた然り。解放された?……いいや、違う。いまだその呪縛に雁字搦めだ、おまえは。ただ僅かに欠片を手にしただけ。満足するには程遠い。だから今もなお、悪夢に苛まれる――我が意識を混濁の沼に堰き止め、おまえの渇望の元となる存在は……やはり……邪魔、だな?」
「おい、ヒュプノス!?」
徐に立ち上がったヒュプノスはその身に冥衣と殺気を纏い、煌めくような黄金の光を放った。ヒュプノスは眩しさに目を眩ませたタナトスとの絆さえも断ち切り、そして、その存在をも破壊するかのように掻き消えた。
作品名:比翼連理 〜外伝2〜 作家名:千珠