比翼連理 〜外伝2〜
3.忌思
「タナトスさま。恐れながら……今、御前に上がられるのはいかがかと思います」
凛とした気風で扉の前に立ち、行く手を阻むパンドラは鬱陶しそうに睨めつけるタナトスにも怯まなかった。パンドラが懸念していることはタナトスからすれば百も承知のこと。
ヒュプノスの悪夢がハーデスの目覚めを悪くし、さらにそのヒュプノスがハーデスの懐から逐電したとなれば、その怒りは片翼の己に向けられるのは必至。それでも……それゆえに直接ハーデスと会い、言葉を交わさなければならない。
タナトスはダンッと両手を扉に叩きつけ、その間にパンドラを挟みながら見下ろすと殊更声を低めた。
「……すべて承知の上だ。急ぐ。どけ、パンドラ」
タナトスの鬼気迫る形相に小さく溜飲しながら、どうしたものかと考えたパンドラだが、目を一度瞑り、腹を決めた。
「では、私も共に参ります……重ねて申しますが、お気をつけ下さいませ」
同伴を断れば、この扉は決して開くことはない。そんなパンドラの強い意志を感じとり、渋々タナトスは頷いた。パンドラは優雅に青い血管さえ透けて見えるほどの白い手を扉へと宛がい、ゆっくりと押し開くと中へと誘った。
広々とした部屋は静寂と聖気に満たされていた。その奥に視線を向けると冥界のすべてを見渡せるような大きな窓の前でハーデスは佇んでいた。ぴくりとも動かず、常に変わらぬ薄闇の世界をただ眺めているようだ。
重く圧し掛かるような静けさ。潰された肺からも空気が抜き取られるといった感覚に陥りながら、沈黙を前に屈するように跪いたタナトスはじっとりとした不快な汗を額から滲み出させた。
「――どうすべきか、わかっているはずだ」
背を向けたまま、剣で打ちのめすかのように吐き出されたハーデスの言葉に、一片の容赦さえ赦されぬ鉄の意志を感じ取る。
「余はこの世界を構築するにあたり、共に在れるものと信じておまえたちを貰い受けたのだが。牙剥くものを飼い馴らすにはそれ相応の代価が生じることも承知の上でな……余は惜しむことなく、その代価を払ってきたつもりであったが、そうではなかったらしい」
淡々と語るハーデスの背に向かってタナトスはただ鋭く弧を描いて肉に食い込む鞭を打たれたように奥歯を噛み締めるしかなかった。それでも、感じる痛みはハーデスの万分の一かもしれないと思いながら。
「アレはどこに向かったか?」
ようやく振り返ったハーデスは決して融ける事のないコキュートスの氷のような眼差しをタナトスに向けた。
「今はもう、途切れた絆。その目指す場所もその意志さえも掴むことが――できません」
屈辱を受けたようにタナトスは顔を歪めた。半身であるヒュプノスを把握できないその事実がタナトスにとって致命的ともいえる屈辱であることをハーデスは承知の上で尚、問い質したのだろう。
ハーデスは鞘から金属音を立てながら剣を抜くと、トンとタナトスの頭頂に宛がった。
「ならば。その身を半に切り裂けば、ふたつと在れるか……?」
陶然とした声音にハーデスの昏い欲の火が灯ったのを感じたタナトスは悪夢の続きに掴まったような気がした。
「ハーデスさま――どうか、御霊をお鎮め下さいませ」
「パンドラ!ハーデス様の為すことに口を挟むな!」
ずっと事の成り行きに息を呑んでいたパンドラの差し出がましさに苛立ったタナトスは後ろを振り返り吠える。わずかに動いたためだろう。頭部に切っ先が食い込んだ。焼けるような痛みとともに、つぅと額に血が流れ落ちていく。ぴくりと動いたその切っ先から、ハーデスの迷いを感じたタナトスは恐る恐る顔を上げた。憎悪と嫉妬に彩られた瞳。夢で見たハーデスの双眸がそこにあった。
「なぜ……だ?」
愕然と失意のうちに毀されたハーデスの言葉の意味がわからず戸惑うタナトスに、背後から静かにパンドラが声をかけた。
「―――いずれ必要になる、それに借りは返さねばならぬ――と、申しておりました。あの者は」
「ほう……余の目を盗んでいつの間にやら小細工をしていたというのか。相変わらず予測不能な……小憎らしいことをする」
そう言ったハーデスはいつしか笑みさえもその貌に浮かび上がらせていた。
ハーデスの険しい表情もその心に纏った闇の氷鎧さえ、一瞬のうちに解かしていくその存在。誰と尋ねなくても嫌というほどわかりきっていた。胸の内で舌打ちする。だが、タナトスが解せないのは何時、その『小細工』をされたのか。まったく身に憶えがなかった。確かめておく必要があるかもしれない。ずしりと鉛のようなものが心を重たくした。
「尤も忌み嫌う者によって救われる気分はさぞかし、心地よきものであろうなタナトスよ。行くがいい。どこへ向かい、何を為すべきかはわかっているはず」
「……御意」
屈辱的な惨めさに打ちひしがれながら、タナトスは冥界の王へ深々と頭垂れた。
作品名:比翼連理 〜外伝2〜 作家名:千珠