比翼連理 〜外伝2〜
8.神音
幾層にも広がりをみせる冥界。
いまだに膨張し続けているらしく、新たに構築されたような場所を幾つも発見しながら、目当ての主の姿をようやく見つけ出した。通ったばかりの場所を何度も通る羽目になったり、迷路にも似た構造に思いのほか時間を要したことから、案内を買って出たパンドラの親切を受けるべきだったなとシャカが後悔し始めた時であった。
水平線に陽が沈み、闇夜の幕が降り始めたような、可視光線が交じり合う空のような色合いを放つ空間でハーデスは一際抜き出た黒曜石の輝きを放ちながら、その空で悠々と羽を広げ舞う飛ぶ鳥のように存在していた。その表情がわかるほどに近づき、高所で留まっているハーデスを見上げる。
「随分と探した。まさか、このようなところに隠れているとはな」
静止画像のようだったハーデスが顔を動かし、視線をシャカへと定める。それと同時にゆっくりと、ふたりの間にあった高低の距離が縮まっていった。
ハーデスが動いたわけでもなく、シャカもまた動いたわけではない。けれども同位置へと移行するという奇妙な事態に視覚が混乱を覚え、シャカは軽い嘔気と眩暈さえ催した。
「隠れていたわけではないが。それに『探した』ではなく、『迷った』の間違いではないのか?シャカ」
「……探した、だ。何をしているのかね、おまえは―――」
まるで深海の底にでもいるかのような重圧さえ身に感じ始め、シャカは混乱する視覚からの伝達を一度リセットしようと瞳を閉ざそうとした。だが、神経の伝達に追いつかず、バランスを失った身体はぐらりと傾いた。それでも宙を掻くように伸ばしたシャカの手はハーデスの腕を掴むことにかろうじて成功した。
「さすがは黄金聖闘士というべきか、シャカというべきか。この域に達したことは褒めてやるが、いささか無謀だったようだな。人間の身でこの場所は苦痛であろう。ジュデッカに戻るか?」
顔を歪めながらも、ハーデスから離れたシャカは軽く頭を振った。
「いや――これしきの圧力、耐えられぬことはないが…確かにここは深い場所だな。奈落の底にでも堕ちたような気がする」
ほんの少しでも気を緩めれば、そのまま底なしの沼にでも引き摺り込まれるのではないだろうかとさえ思うほど、危うい感覚が鎌首をもたげ、己を支配しているような気がした。シャカにすれば危険極まりない場所ではあったがハーデスは心地よさげに見えた。この場所はハーデスにとって何を意味し、また一体彼は何をしていたのか。知りたいという欲が不快さを勝っていた。
「それよりもさっきの質問の答えは?」
せっつくシャカに半ば呆れ顔でハーデスは庭を散歩でもするように歩き始めた。
「余が何をしていたか……だったか?」
「そうだ」
「知ってどうするというのか?おまえが見た通りだ。余は何もしてはいなかった」
「はぐらかすな。ならば質問を変えようか。何を考えているのかね、おまえは。タナトスのことも然り。気まぐれに過ぎると思うが」
この場所に侵されただけではない不快さをシャカは顕にしてみせた。ハーデスのほうはといえば、そんなシャカを珍しい物でも見つけたように眺めていた。
「何かね?言いたいことがあるならばはっきりと言いたまえ」
「いや……本当におまえは面白い。それに――」
どこか薄ら寒ささえ憶えるような張り詰めた笑みを浮かべて返すハーデス。灸を据えるどころの話ではない気がした。シャカがハーデスに潜む危うさを感じ取り、一歩後ろに下がった。
「――!?」
引いた足は確かに着地したはずだった。けれども、そのままポッカリと開いた穴に嵌ったような落下速度をシャカは体感した。流れる周囲の風景が滲むように闇夜の空と化し、シャカの身をまるごと呑込んでいくかのようだった。
無音の世界に沈みながら、シャカは時の流れる音を聞いた気がした。それは力強く鼓動する心音に似ていた。
気を許しすぎていたのだろう。
愚かにもこの男は自分にはまったく無害な存在なのだと信頼し、安心しきっていたのだろう。忘れていた――そも、この者は悪しき邪神であったということを。
作品名:比翼連理 〜外伝2〜 作家名:千珠