名残の、後編
ぱくぱく、と金魚のように二度三度息を吐くが、答えは口で言うより俺の態度のほうが雄弁に物語っていたようで、フランシスは満足の笑みを浮かべた。
「ほら、やっぱり恋だった」
そんなことあるわけないだろう、そう思って帰ってきたその足でローデリヒの部屋へ向かう。
まだ明かりがついているのは外から見ていたので、起きているだろう、そう思いノックすると、しばらくの後、眠そうに部屋から出てきた。
俺の姿を見て眉をひそめる。
「あなたの部屋なら隣ですよ」
「うっせぇ、お前に用事があって来たんだよ」
「・・・・・・・・は?」
ふらふらと、酒のせいで足元がおぼつかない。
そのまま部屋へ強引に入ると、ローデリヒの手を取ってベッドへとなだれ込んだ。
何をするんですか、と言う抗議の声を無視して、ローデリヒの上に乗っかると、ぎゅ、と抱きしめる。いつも抱きしめている、フェリちゃんの体と同じような体格のくせに、抱きしめたときの匂いはぜんぜん違う。耳元で出される声も、髪の質も、すり合わせた頬の質感も。
面白くなって背中を撫で回す。耳のすぐ近くにある唇が、はっと息を吸い込んだ。
「今日、友達と飲んでたんだ」
「・・・・・それは見たらわかります。酒臭い」
その言葉に苦笑する。
手厳しい。
じ、と顔を上げて至近距離でその顔を見つめる。
ずっと室内でピアノばっかり弾いているからだろうか、白い肌に薄い唇。その下に印象的なほくろ。瞳を見つめると、おびえるように、警戒しているように細められ、透き通る虹彩を見ていたらプラムを思い出した。深い紫のその目は、食べたら美味しいだろうか。
ぺろり、と舐めようとすると、すんでの所でまぶたを閉じられたので、仕方なく舌で睫の感触を楽しむと、不快そうに俺を押しのける手に力が入る。
「あいつらさぁ、俺がお前に恋してるって言ってきかねぇんだ」
「はぁあぁあぁ!?」
口を離し、つぶやくとローデリヒの眉が嫌そうに潜められた。
「そんなことあるわけねぇよなぁ・・・・。何でこんなの」
「・・・・・あなた、私を侮辱しに来たんですか?」
「フェリちゃんのほうがかわいいし、笑顔に癒されるし」
「・・・・・・・そうですか」
はぁ、とため息をつく。
酒のせいだろうか、頭がぼぅっとして、自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ思いつく言葉をつらつらと話す。
ローデリヒの眉間に皺が寄る。その皺を指でつつき、再び頭をかしげた。
「なのになんで、お前にはキスしたくなるんだろうなぁ・・・・・・?」
ローデリヒの目が見開かれる。
こうして見ると子供のようだった。
かわいい、と思い、けれど、それ以上はもたなかった。
心地よい体温を感じながら、眠りについた。
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私は信じられない思いで、その男のその言葉を聞いた。
目の前の馬鹿は灰がかったような金の髪に寝癖をつけて、頭をぽりぽりとかいている。
「っていうか・・・・・、俺、なんでここで寝てんだ?なぁ、ローデリヒ」
昨日のことをまったく覚えてないような口調に寝ぼけた赤の目。昨日私の部屋に無理やり尋ねてきて爆弾発言を残し眠りに着いた同居人は、昨日のことを一切覚えていないらしく、不思議そうな顔をして腕に抱かれてる私を見たのだった。
「っかしいなぁ〜、昨日は確か3人で飲んで・・・・・」
「覚えてないのですか?」
「途中までは覚えてんだけどよぉ・・・・・・」
最悪だ、この人。
私はため息をついて、それから頭をかしげている男の耳を引っ張った。
「あ、な、た、は!昨日私が眠っていたにもかかわらず私のところに入ってきて散々わめいたあげく、そのまま寝てしまったんです」
「・・・・・・え、まじで」
ギルベルトの目が丸くなる。
「ほかに、なんか言ったか?」
「何も」
「そ、そうか・・・・」
言って目をそらしながら、悪かった、とだけつぶやいて部屋を後にする。
その後姿を見て、重く、重くため息をついた。
まったくなんなのだあの男は。
頭の中で昨日言われたことを反芻する。
あれは、酒から出たただの戯言なのだろうか。それとも。
ぶんぶんと頭を振ってその言葉を、昨日のギルを思考から押しのける。住んでいてわかるようになったが、適当なところが多いわ、思考が短絡的だわ、子供っぽいわのあの男の言うことをいちいち真に受けることがおかしい。
そう思ったのに、なぜだろう。
心臓がどくどくと波打って、フェリシアーノに『ギルが愚痴ってたよ〜』と言われた時のような、それ以上だろうか、胸の奥が少しだけ、暖かくなった。
「・・・・・・・・・・ん、OK。この小節までは完璧だね」
ほのぼのとした雰囲気が特徴的なピアノ教師が言う。大学内だと言うのに、いつも連れて歩いてる猫を抱きしめたその男は、起きているのかどうか疑わしいような顔で聞いていたが、演奏が終わると、薄っすらと微笑んだ。
暖かい日差しが窓から舞い落ちてきて、グランドピアノに降り注ぐ。心地よい眠りに誘われそうな、そんな午後の授業だった。
「ありがとうございます、ヘラクレス先生」
手を鍵盤から離し、言うと、ヘラクレスは猫から目を離し私のほうを見て頭をかしげる。
「ローデリヒは・・・・・、恋でもしたの?」
「は!?」
「この小節は、初恋の時のような、きらきらとした感じに弾いてって言ったら、ほんとうにそうなった。音が、多彩になった」
「・・・・・・・・・・・私の技術が上がったということですか?」
眉をしかめると、ヘラクレスはふるふると頭を振る。
「テクニックは色んなことをカバーできる。でも、感情移入はテクニックじゃカバーはできない」
「・・・・・・・はぁ」
「だから、感情移入が出来たってことは、誰かに恋でもしたのかな、って思ったけど・・・・・・」
「違います」
何故か昨日の、至近距離で見た赤い瞳が思い出されて強い口調で否定する。
すると、ヘラクレスはとても残念な様子で抱きしめた猫の額にあごを乗せたのだった。
「そうか・・・・・。残念。でも、音が艶っぽくなった。これはいいこと。今までローデリヒの演奏はテクニックはすごくても、音に艶がなかった。生徒の演奏がよくなって、先生はうれしい。だから、もしも誰かに恋でもしてるんなら、素直になったほうがいい。じゃなきゃ、後で後悔するかもしれない」
「・・・・・・・・・はぁ」
およそ恋とは遠そうな男だと思っていた教師にそんなことを言われるのが意外で、ますます眉をひそめる。
先ほどまで言っていたことをもう忘れてしまったかのような顔で、そういえば、と振り返り、ファイルからチラシを取り出した。
「これ、やらない?」
見てみると、来月にあるコンクールの声楽部門の募集だった。
「今年は人の集まりが悪くて。やってくれればうれしいんだけど」
「課題曲は・・・・・」
「自由。だから、やってくれるんだったら、生徒と直接話し合って決めて欲しい。・・・・・・きっといい経験になる」
「そうですね。では、ぜひ」