名残の、後編
微笑むと、ほっとしたようにヘラクレスも微笑んだ。よかった〜、と言いながら名簿に名前を書く。覗き込んでみると確かに名簿に書かれている人数は少なかった。
こちらがまだ1年生であることを考慮した上で、無理をしない日程になるようにとヘラクレスは言い、そうして授業は続けられたのだった。
「あ、あああああ、あのっ!」
音楽史の授業が終わるなり、エリザベータが息せき切って話しかけてくる。
あわてていたのだろう、ばん、と私の座っていた机に手を置き、それからその手を隠すように背中に回した。
「声楽のコンクールの伴奏、ローデリヒさんが引き受けてくださるって、本当ですか!?」
「ええ、今日の昼くらいにヘラクレス先生に頼まれて。・・・・・・情報が早いですね」
にこ、と微笑むと、エリザベータは目尻を赤くして身を乗り出した。
「あの!それでしたら、私の担当になっていただけませんか!?」
「え・・・・・、あなたも出場するのですか!?」
「もちろんです!あの、自由課題の時だけでいいので!」
今回のコンクールは指定された課題を二つほど勝ち抜き、それから自由課題が最終審査となる。
「ええ。私でよろしければぜひ」
「本当ですか!?ありがとうございます!ありがとうございます〜!!」
言って嬉しそうに跳ねるエリザベータにこちらの眦も緩む。彼女とはクリスマス以来一緒に歌うことはなかったが、それまでの練習で柔らかくも芯の強い声で歌うのを知っていたので少なからず楽しみになった。
手帳を出し、お互いに都合のいい練習日を確認する。大学を使える時間は限られていたので、申し訳ないと思いながらも私たちの家で練習しないか、と申し出たら、再び彼女のテンションの高い「ありがとうございます」を聞くこととなったのだった。
「なんでリズがまたここにいるんだよっ!?」
「ローデリヒさんに伴奏してもらうからよ!悪い!?」
「悪いわ!俺のネバーランドを汚すんじゃねぇ!」
「ネバーランドって・・・・」
多分本人は自分の根城といった意味で言いたかったのだろうが、ギルベルトが言うと少し笑えないところがある。
顔をあわせるなり喧嘩を始めるエリザとギルに、おろおろと二人の間に立つフェリシアーノ。どうすればいいんでしょうねぇ、と考えたところで結局ため息をついてエリザを自分の部屋に招待するのみだった。
「それで、どの曲を?」
部屋について受け取った楽譜は、有名なオペラのもので、技巧のあるソプラノ歌手がその腕を披露するのにうたわれることの多い曲として有名なものだった。
なるほど、確かに彼女の声に合うだろう。
譜面台に楽譜を置き、初見で演奏をする。指は滞りなく動くので、今度はエリザにうたうように指示するが、どこか上ずった声でいつもの彼女の声ではないように思えた。
「緊張してますか?」
「え!?え、ええ!?すみません・・・・」
「いえ、慣らしもしないのにすみません。・・・・・・・何か好きな曲でも歌ってみますか?」
「い、いいんですか!?」
耳に手を当て考えるしぐさを見せ、それからエリザはそれでは、と口を開いた。
「夏の名残の薔薇、を。・・・・・・知ってますか?」
「ええ。ずいぶんと渋いのを歌われるのですね」
「好きなんです。余りソプラノには向いてないんでしょうけれど」
「わかりました。・・・・・・多分、弾けると思いますけれど」
最初の数音を弾いてみて、それから流れるように指を動かす。昔練習した曲だったが、思ったよりも滞りなく弾けるようだった。
エリザベータが目を丸くする。
「言って、こちらのほうをすぐに弾いて頂けたのは初めてです」
「ああ・・・・、そうですね。この曲はあちらのほうが有名ですから」
「ピアノ奏者ですと、あちらのほうを思い浮かべますよね」
ふふ、と軽く笑い、それから息を吸い込む。
腹筋に力を込め、まるで体をひとつの楽器としたかのように両足でしっかりと支えこんだ。そうして、目を瞑り両手で腹を押さえ、息を吸い込む。
「'Tis the last rose of Summer,Left blooming alone.....」
力強く芯のある声で歌い上げるその音は、高くはないが艶を持ち、しっとりと聞かせる音色だった。
その音に合わせて指を動かす。
本来の歌の完成が待ち遠しく思えた。
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朝、目覚めたら不思議なことに隣にローデリヒがいた。
男にしては長い睫を伏せ、すぅ、すぅ、と寝息を立てているその姿を艶かしく思ってしまい、慌ててお互いに服を着ているのを確認した。
よかった。何もないようだ。
重いため息をついてから、それから頭をかしげる。俺が身動きしたせいでローデリヒが目を覚ました。
「ここ、お前の部屋?」
たずねると、目を丸くして俺をまじまじと見てくる。
何なんだよその顔は。
「っていうか・・・・・、俺、なんでここで寝てんだ?なぁ、ローデリヒ」
眉をひそめ問うと、ますます大きくなるローデリヒの目。
必死になって昨日のことを思い出そうとするのに何一つ思い出せなかった。
「っかしいなぁ〜、昨日は確か3人で飲んで・・・・・」
「覚えてないのですか?」
「途中までは覚えてんだけどよぉ・・・・・・」
フランシスにウィスキーのボトルを渡された時あたりから記憶がない。
よくわからないカウンセリングのあと、景気付けだとか言って渡されたボトルを飲み干し、それでも俺は家に帰ったらしい。
ふ、とカウンセリングのことを思い出し、今の状況もあいまって急激に鼓動が早くなる。
はぁ、とローデリヒがため息をついて両耳を力いっぱいに引っ張った。
「あ、な、た、は!昨日私が眠っていたにもかかわらず私のところに入ってきて散々わめいたあげく、そのまま寝てしまったんです」
「・・・・・・え、まじで」
フェリちゃんの時のことが思い出される。
もしかして、もしかしなくても、またあのノリでわめいたのか?
昨日最後のほう、俺の頭を占めていたのはほぼフランシスによるカウンセリングの内容だった。
ばつが悪くなって恐る恐るローデリヒを見た。
「ほかに、なんか言ったか?」
「何も」
「そ、そうか・・・・」
彼なりに気を使っているのか、それとも本当に何も言わなかったのか判断がつきかねて、たずねると、涼しい顔でそう言うものだから、それ以上の詮索はやめにして悪かった、と呟くと部屋を後にしたのだった。
部屋に戻り、今日一日は何もないということをいいことに二度寝を決め込んでいると、携帯の鳴る音で目が覚めた。
窓から差し込む光は十分に白いのに、何故かそれを夕方にかかってくるローデリヒからの電話だと思いこんだ俺は、響く頭を抱え、携帯を取る。
通話ボタンを押し、目は開けないながらも電話に出た。
「・・・・・・ローデリヒ?」
けれど、その電話はまったく別の人物からだった。
「すまないね・・・・、私はそのローデリヒ、とやらではないよ」