懺悔
幼い輪郭の顎を支えて消毒液を染み込ませた脱脂綿を当てる。結構派手にやられているが、相手は人類だろう。骨折もないようだし、この街に置いてはマシな方だ。
出血している箇所に薬を塗ってから氷嚢を作ってやった。「ありがとうございます」と素直に受け取って患部に当てる頃には随分落ち着いていた。彼はこの街に不釣り合いなほど平々凡々としているわりに順応能力が高い。
「あの、スティーブンさんがこうして狙われることはよくあるんですか?」
「それなりにね。僕だけじゃないと思うが、人一倍恨みは買ってる。ライブラでの立場もある。今回の連中の目的は後者だ」
「パーティーに刺客が潜り込んでいた的な?」
「潜り込む以前に、招待客みんながグルだった。流石に驚いたよ。みんな別々に親しくなった友人だと思っていたからね」
みんなそれぞれに社交的で夢を持っていて真面目に働いて暮らしているいい連中だった。演技にしたって大したものだ。後戻りできない段階まで、どこかで気が変わって穏便に帰ってくれればいいと思っていた。そうしたらまた友人関係を続けただろう。殺意を受け取って即始末しないぐらいの情はあった。
だけど期待虚しく銃口を突き付けられてはそんな呑気なことは言っていられない。全員闇に葬ってやった。明日も世界の均衡を守るために。
だが少年にはわからないことかもしれない。仕方ない。生きてきた世界が違う。少年は間をおいてゆっくりしゃべった。
「お友達にみんなで裏切られて、辛かったんすね」
拍子抜けだ。何を言うか多少なりとも身構えていたのに、子供の喧嘩を仲裁するようなセリフじゃないか。
「やらなかったら殺されてたんでしょ?…無事でよかったです」
「ほんとにそう思ってる?」
「もちろん。……お友達もなんとかできたら、それが一番だったでしょうけど」
最後についたキレイ事がこの子らしい。だが予想外に肯定的だった。
「君はクラウスとは違うんだね。クラウスに隠し事をしていることを責めたり、こういうやり方を毛嫌いしたりはしないのか」
少年は見るからに育ちのいい子だ。異常が日常のこの街で逞しく奮闘しているが、根っこの部分は日向ですくすく育ったまっすぐな性格をしている。裏街道を長年歩いてきた大人からすると眩しいぐらいだ。クラウスに似ていると思っていた。
「告げ口なんかしませんよ。俺だってこういうの大賛成ってわけじゃないけど、スティーブンさんが必要だと思ってやってることならそうなんだと思います」
「意外だな」
「そうですか?うーん……」
目元に充てていた氷嚢を子供っぽいしぐさで頬に押し付けて唸る。
「例えばですけど、僕がパンを万引きしたとします。それを知ったらクラウスさんは悲しむでしょうし、K・Kさんには叱られて、チェインさんはわかんないっすけど、ザップさんには冷かされるだろうなあ。やるならもっとバレないようにやれ、とかって。スティーブンさんはどう思います?」
ザップならいざ知らず、実際にはこの少年に窃盗なんて出来ないだろう。
「事情を訊くね」
それが自分の仕事だとも思う。問答無用で裁くにはかわいすぎる罪だ。
答えに満足げに少年は頷いた。
「実は僕はとてもお金に困っていて、ずっと何も食べていなかったんです。それでこのままじゃ死ぬと思ってやったんです」
「それなら仕方がないから一緒に店まで行って盗んだ分の金を払って謝ろう」
「あはっ、非行少年の保護者っすね」
想像したら確かに可笑しかった。多分他のメンバーのためにそこまでする気にはならないが、真面目で実年齢以上に幼く見える彼のこととなると、教師みたいに世話を焼いてやるべき気持ちがわいてくる。パン代の小銭を握りしめて涙ながらに謝罪する少年の姿はノスタルジックで見物だとも思うし。
「だが、そこまでやる前に相談して欲しいものだね」
「はい、現実にはもちろん」
例え話ではあるが、彼が金に困っているのは本当のことだ。食うに困るようになったら事務所の食糧を分けてもらったり、奢りで誰かに食べさせてもらうこともあるから飢え死にすることはないが。
「スティーブンさんは僕が情状酌量の余地もない理由で盗んだとは思わなかったんですよね。それで理由を聞いて仕方ないって思ってくれた」
「それが僕の行いにも適用されると?」
パンを万引きするのと人間を何人もまとめて始末するのを同等に語るとは少年もだいぶこの街に毒されてきたものだ。
「今夜はお友達に殺されるところだったんですよね」
「ああ」
「脳みそを狙われたってのは、ライブラとか、スティーブンさんが抱えてる超極秘の情報を盗られかけたってことで、下手すれば世界の危機でもあったわけで」
「そうだね」
「それなら僕は仕方ないと思います。スティーブンさんの判断は正しかったんだと思います」
部屋のどこかのグラスで氷が解けて軽い音を立てた。主を失ったグラスがどこかで呼んでいる。
「クラウスさんの信念には引っかかるでしょう。法律でも過剰防衛かもしれない。でもそれでスティーブンさんが死んじゃったら困ります。もっと事態に余裕があることだったらもっといい方法があったのかもしれないけど、そういう状況じゃなかったんでしょう」
「詳しい事情も知らないのにそんな大雑把に理解を示してくれるのかい?」
「まあ、実家で暮らしている頃には理解できなかったと思うんですけど、僕もこの街に来てからもう何度も問答無用で攻撃されたり殺されそうになったりしてますから想像はつきますし。それに、スティーブンさんは意味のないことはしないって信じてますから」
本当にそうなんだろうか。奴らの断末魔を聞いていないからそう言えるんじゃないだろうか。俺を呪う元友人たちの呻き声。数時間前に握手してハグして笑いあった相手を平気で殺すんだ。先に仕掛けてきたのは奴らだけど。心のどこかでは正しいわけがないと思う。
「クラウスだって僕のことは信じてくれているはずだけど、君のように納得はしてくれないだろうよ」
彼は正しさの定規だ。融通が利かなくて真っ直ぐで美しい。一緒に歩いている俺だけが密かに蛇行している。
少年はまた少し唸った。
「うーん、まあ確かにクラウスさんだったらもうちょっと説得で粘ったのかもしれませんね。状況はよくわかんないっすけど。そういう余地はあったんですか?」
「なかったよ」
「じゃあ、どのみち自分の身とライブラや世界を守るためには他の選択肢はなかったってことじゃないですか。最善を尽くしたんならやっぱり仕方ないです」
「そうかな」
「だって、できることならスティーブンさんもお友達を失くしたくなかったんでしょ。だからそんな風に落ち込んでるんだ」
ちょっと驚いて眉を上げた。
「落ち込んでる?」
「自覚ないんすか?」
遠慮がちに、こちらの顔色をうかがいながら頭に手を乗せ、髪の毛先に向かって動かす。子供にやるみたいに。嫌がらないのがわかるとそれを更に繰り返した。
「別に僕が何を見たって口止めだけしてもよかったじゃないですか。事情を納得させた上で口止めしたかったってわけでもないんでしょ。こっちが理解を示してんのに納得してないのはスティーブンさんの方じゃないですか」