キスのあとは
すずめが、今は馬村くんと付き合っていることも知っているし、獅子尾はすずめの学校の教師だ。
それでも、無神経過ぎる気がした。
獅子尾も、真剣にすずめのことを愛してくれていたから。
諭吉は、すずめに仕事に行ってきますと書き置くと、家をあとにした。
しかし、タイミングが悪いというのはこういうことで、その日の夜仕事帰りに獅子尾が店に立ち寄った。
「ゆきちゃーん。俺、最近忙しくてまともな飯食ってないんだ。なんか食べさせて〜」
「…何でもいいか?」
「もちろん!」
それからは、主に雑談、あとは獅子尾の仕事の話など近況報告をして、獅子尾は時計を見た。
「俺そろそろ行くかな…」
「あ、ああ…またな」
獅子尾は、席を立とうとするが、一瞬考えると、真剣な顔でゆきちゃんと声を掛けた。
「何か、相談したいことあった?」
「え…」
「ちょっと元気なかったから。でも、俺に話す気もないみたいだし…。そうなると、全く俺に関係のない話か、もしくは俺に関係あるけど、俺に聞きにくい話かのどっちか…かなと」
諭吉の目が泳ぐのを見て、獅子尾は後者であることを悟った。
「あいつのことね…何があった?」
「…で、学校で何かあったのかと思って」
「泣いてた?いや…、学年違うから今日は帰りに見かけただけだけど…。いつも通りだったと思う。なんか、馬村と一緒に帰ってたとこは見たけど、楽しそうだったよ」
「ってことは、帰りに馬村くんと何かあったのか…」
諭吉はこれ以上ないほど、深くため息をつく。
「でも、ただの痴話喧嘩じゃないの?高校生のカップルなんてそんなもんだろ。まあ、俺が間に入るのはこじれそうだから、ちょっと気にして見ておくよ。でも2年と中々会う機会ないけどな…」
すずめが泣いてご飯も食べないなど、よほどのことだと思うが、この叔父の心配を少しでも取り除きたいと嘘をついた。
獅子尾はまた連絡すると言って店を出た。
すずめに会う機会など、ほとんどない。
でも、見かけると嬉しくて、笑ってると心から良かったと思う。
泣いているのならば、直接ではなくても力になってやりたい。
それは、きっと教師として間違ったことではないと思うから。
次の日、馬村はあまり眠れなかったせいかスッキリとしない頭を振って、早くに家を出た。
昨日の夜、何度も電話をしようと思った。
しかし、何を言っても言い訳にしかならず、傷つけたことに変わりはない。
それに、情けない話だが、嫌われたかもしれないということが、こんなにも怖いとは思わなかった。
あいつが来るまでは、ほとんどの女に嫌われていた自分が。
「馬村!おはよ。今日、早いね」
上履きに履き替えていると、突然後ろから話しかけられて、現実に引き戻される。
ぼうっとしてどうかしたのかと、犬飼が心配そうに顔を覗き込む。
「あぁ、…はよ」
そして、タイミングは悪い方に進むもので、謝りたいと思っていると、当人と話すチャンスのないまま、授業が始まってしまった。
馬村が、移動教室の時間廊下を歩いていると、懐かしいがあまり話したくはない人物に声を掛けられる。
「よっ、久しぶりだな」
「…っ、何か用か?」
すずめと中々タイミングが合わない苛立ちから、獅子尾に声を掛けられただけなのに、思いっきり睨んでしまう。
「ちょっと、こっち」
獅子尾は、馬村を袋小路になっている通路まで連れて行くと、念のため辺りを見回してから話し始めた。
「昨日、ゆきちゃんが…心配してた。泣いて帰ってきたって。
別に俺はおまえたちの痴話喧嘩に関係ないけどな、ゆきちゃんは友達だからな。あんまり心配かけるなよ。そんで、原因は知らんけどね…あんまり泣かすなよ」
「んなこと、分かってるよ!泣かしたくて泣かしたわけじゃねーよ!」
獅子尾は、やっぱりこいつが原因かと思うが、それに対して怒りがこみ上げることはなかった。
(あいつのことを完全に過去に出来ているわけじゃない…)
なのに馬村に対して怒れないのは、自分も泣かせたことがあるからで、その後にどれだけ後悔するかを知っているからだ。
「俺は、修復することは出来なかったけど、おまえは違うだろ?」
少し傷ついたような顔で、獅子尾は薄く笑って言った。
馬村は、不思議に思うことがあった。
大人ぶってる子どもみたいなこの教師は、すずめを前にしても冷静でいられたのだろうか。
激情に駆られて、抱き締めてしまったりすることはなかったのだろうか。
「何でそんな冷静に俺らのこと聞けるわけ?つーか、あんた、あいつと一緒に居る時もそんな冷静だったわけ?」
「んなわけないだろ…。冷静になれるんだったら、あの時おまえと張り合ったりしてねーよ」
「…」
獅子尾とこんな風に長く話をしたのは初めてだった。
付き合ってはいなかったと思うが、馬村の気持ち的にはすずめの元彼のような存在なのだから、疎ましく思っていたのは当然だが、今は話を聞いてみたい気持ちもあるのかもしれない。
だが、話を切り出したのは意外にも獅子尾からだった。
「今でも…あの時、あの子の気持ちがまだ俺にあるうちに抱いておけば良かった…とか考えることはあるな」
「何で…そうしなかった?」
「あの時は…。俺が一歩を踏み出せなかったのもあるけど…」
「あるけど?」
(抱いたら…もう手放せなくなるのが分かってたから…)
獅子尾は、馬村と話しているうちに大体の事情を察してしまう。
自分が高校生の頃など、彼女と会えば「そのこと」しか考えていなかったから。しかし、すずめは今どきの高校生とは真逆のタイプで、今まで優しい友達でいた相手が、急に男になったことで、かなり動揺したであろうことまで想像がつく。
その時、廊下の窓にすずめが走ってくる姿が映る。
「ま、あとは自分で考えろ」
馬村の頭をポンと叩くと、時間切れとばかりに3年の教室へと行ってしまった。
「馬村!何してるの?次移動だよ」
すずめが走りながら遠くから馬村を呼ぶ。
(なんで、このタイミングなんだよ…)
昨日のことを謝りたかったはずなのに、やっと2人で話す時間が取れたのに、言葉が出てこない。
すずめもまた、何も言わない馬村にどうしていいのか分からないでいる。
馬村は黙ってすずめの手を引くと、空いている教室に入った。
(何が、正しいかなんてわかんねえけど)
「ま、馬村…?」
ドアを閉めると、すずめを優しく抱き締めた。
(俺がこいつのことを好きなことだけは、揺るがないから)
「ごめん…」
馬村はやっとそれだけ言うと、すずめは首を振り、背中に回した手でシャツをギュッと掴んだ。
「馬村と、こうしてるのは好きだよ…でも…」
「分かってる…。それでも…俺は、おまえのこと触りたいって思う。おまえのこと好きだから、止められない」
ごめん、は泣かせたことへのごめん。
好きなら…触れたくなるのは当たり前だから。
馬村は、教室の机に腰掛けると、すずめを抱き上げて膝に乗せた。
「だから…おまえが触って。おまえが触りたいと思うとこまで…」
「えっ…」
チャイムが鳴り授業が始まっても、すずめを降ろそうとはしなかった。
すずめは、向かい合って馬村に抱っこされている状態で、どうすることも出来ずに顔を真っ赤にしていた。