記憶のかけら
「俺は、おまえが好きだよ…。それだけは覚えておいて…」
すずめが軽く頷くと、頬にキスをして抱き締めていた腕を離した。
家に帰ってふと、思い出す。
獅子尾先生のことを話した時だった。
馬村が、悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をしたのは。
もしかしたら、馬村のことを知らないうちに凄く傷つけてしまったのかもしれない。
(早く記憶が戻れば、大輝にあんな顔させなくなるのかな…)
記憶喪失も2週間目に入り、徐々にだが、生活も落ち着きを取り戻していた。
今日は病院の予定も入っていないので、学校の帰りは家まで送る予定だ。
「ねえ、私たち付き合ってるんだよね?」
すずめが唐突に言い出した。
「いきなり、なに?」
馬村は驚いて立ち止まる。
「うん…デートとかしてたのかな…と」
「あぁ、まあそりゃあ…」
「じゃあ、してみよ?」
記憶がないとは思えないほど、以前と同じ仕草、表情で話す。
記憶がなくても、性格は変わるものではないのだろうか。
これが記憶が戻るキッカケになればと、馬村も賛成した。
「どこに行きたい?」
「うん…大輝と行ったことのあるとこ、全部連れてって」
数日に渡り、色々なところに足を運んだ。
クリスマスにツリーを見に行った場所、時間が遅かった為に入ることは出来なかったが、馬村の誕生日に行った寿司屋。
2人で休日に行った遊園地。
「風景は…なんか見たことあるような気がするんだけど…」
「俺…ここでおまえにキスしたわ」
覚えてないか、と寂しそうに笑う。
2人で行った場所、みんなで行った場所、あまり遠出はしていなかったこともあって数日ですべて周ることが出来た。
記憶がなくても、築地に行った時は目を輝かせていて同じ反応だなとクスリと笑う。
だが、馬村は水族館だけは連れていくことが出来なかった。
(もしまた、思い出して、あいつのことを好きになったら…)
そう考えるだけで、怖かった。
夏祭りの時のように、振り払われるのが怖くて、手も繋ぐことが出来ない。
耐えられずに、このあいだは、つい抱き締めてしまったが。
「あとは、俺んちと、おまえんちぐらいか…どうする?来るか?」
「うん、もちろん」
馬村は記憶がある分、部屋に2人というシチュエーションは避けたかった。
どうしても、部屋に入ると、キスしたことや、頬を赤く染めて縋り付いてくる腕や、荒くなった呼吸やあの時の声を思い出してしまうから。
「大輝の部屋広っ!」
「おまえ…始めてきた時も同じこと言ってたわ…」
「ねえ、写真ある?見せて」
「あぁ、その辺に入ってるから、適当に出して見て。俺お茶淹れてくるわ」
「うん、ありがとう」
馬村は、2人分の紅茶を淹れながら、あることを思い出して、沸騰したポットのお湯を溢しそうになった。
(やっべ、あの写真…っ)
慌てて2階の自室に戻ると、すずめが顔を赤くしているのが分かる。
馬村はどうか見ていませんようにと、すずめの見ているアルバムを確認するが、嫌な予感が当たった。
(やっぱり…っ)
(記憶が戻ったら、俺の部屋に来たことだけ忘れてますように…)
そんな都合のいいことを考えて。
「大輝…この写真…」
「いや、それは…」
「私…愛されてるなぁ…」
すずめは、まるで、自分のことではないように言った。
アルバムにきちんと入れられた数枚の写真には、全てすずめが写っていた。
綺麗な海をバッグに笑っているところ。
水族館みたいな場所で、魚を見ているところ。
体育祭で、1位の旗を持ってピースサインをしているところ。
1番下に貼られている写真は、馬村に後ろから抱き締められている風で、すずめも微笑みながら後ろに寄りかかっていた。
写真は全て幸せそうに写っている。
中でも、最後の写真が1番幸せそうだった。
他の自分の写真は、アルバムに綴じるのが面倒なのか、箱に入れられているだけなのに、すずめが写っている写真だけは綺麗に綴じられている。
「私…凄い幸せ者なんだね…。こんなに好きでいてくれる人がいて」
「…そうかもな」
「あーあ、早く記憶戻らないかな〜」
(そうしたら…大輝にあんな悲しそうな顔させなくてすむのに…)
最初は、何が何だかも分からなくて、記憶を早く取り戻したいとも別に思わなかった。
彼氏と言われても、家族と言われても、自分にとっては知らない人だったから。
でも、こんなにも思ってくれている人を悲しませたくない、今はただそう思う。
この気持ちが、何なのかはよく分からないけれど。
「ねえ、大輝…?」
「ん?」
「記憶のある私はあなたのことが大好きだったと思う。でも…」
馬村は、そこまで聞いて、背筋が凍るように寒くなる。
聞きたくなかった。耳を塞いでしまいたかった。
「でも、今の記憶のない私も、大輝のことが大好きみたい。まあ、恋愛とかよく分からないけどね」
記憶のない私は会ってまだ、1週間しか経ってない。
それでも、近くにいるとドキドキと音を立てる心臓。
馬村の優しさに触れるには十分な時間だった。
えへへと照れたように笑うと、驚いた顔の馬村に、身体ごと引き寄せられ強く抱き締められる。
「ごめんな…俺。ほんと、カッコ悪い」
「え…?なんで?」
「お前にどうしても言えなかった…あいつのこと」
「あいつ?」
「獅子尾…」
「先生?なんでここで先生が出てくるの?」
すずめは、馬村が何を言っているのか全く分からずに、ただ混乱する。
簡単に、自分と付き合うことになった経緯や、獅子尾との話をする。
「えっ!?先生と?それっていいの!?」
すずめは驚いて、馬村の顔を仰ぎ見る。
「よくないだろうけど、そうだったんだよ。んで、色々あって終わりにして、俺と付き合ったから」
馬村としても、すずめと獅子尾の間にあったことすべてを知っているわけではないから、かなり省いた言い方になってしまった。
「それって…私…サイテーじゃない?」
何故か、記憶のある自分に対して怒りがこみ上げてくる。
「そーいや、俺の告白の返事に上から目線でごめん、みたいなこと言ってたな」
「大輝も、よくそんなの受け入れたね…」
過去の自分が何故そう言わなければならなかったのか、見当もつかない。
「俺は、どんな形でも、お前が俺のことを真剣に考えてくれたことが嬉しかったから」
馬村は、コツンとおでことおでこををくっ付ける。
かなり近くにある顔に、また、すずめの心臓が音を立てて跳ねた。
自分のことなのに、どこか他人の話を聞いているようにしか思えなかった。
今の私は、過去の話を聞いても、気持ちが揺らぐことはない。
誰を大事にしなければならないのかも分かっている。
「そんなこと言われても…。獅子尾先生のことは、先生としか思えないよ…。本当に好きだったのかな…」
「泣いて田舎に帰るぐらいはな…」
嫌なことでも思い出したような顔で、ため息をついた。
「なあ、キスしてもいい?」
熱を帯びた目で見つめられ、どうしたらいいのか分からない。
「…っ、恥ずかしいよ!したことないし!」
すずめは顔を真っ赤にして、目をそらすが、額をくっ付けたまま、真剣な目で見つめられると、高鳴る鼓動を抑えることが出来なかった。