波間の蜜月
エリザベータが瞬いた。働いてないと思われてたなら心外だ。
口をとがらせるとエリザベータは噴き出してごめん、と言った。
「何の仕事?」
「海賊」
間髪いれずに返したら、エリザベータは口をぽかんと開けた。
「…じゃなくて『船乗り』な」
「もう、本気にしたでしょ!?」
エリザベータは頬より先に耳が赤くなる。白い肌に血が上って綺麗だと思った。
が、同時に鋭い右フックが飛んできた。
「がっ…」
避けきれずにモロに頬に食らった。
カウンターに突っ伏すと周囲から笑い声が上がる。
「あっ、ごめん、ごめんね避けられなかった!?」
否定も肯定もしがたい質問が飛んできたけれど、頬を心配そうにさすられたのでよしとしよう。
真剣に覗きこんでくるエリザベータの瞳は、本当に恋人を見るような視線だった。
***
ばか。
ジョッキに口をつけながら、横目にギルベルトを睨む。
カウンターで、顔見知りらしい店員に連れのエリザを自慢している緩み切った横顔。
何度かビールをおかわりして、そろそろいい具合に酒がまわってきているのもあってか、
上機嫌極まりない。
「へへっ、いい女だろ俺様の女だからな!!」
しっかりウエストを抱かれていて、聞こえないフリもしきれず頬が火照る。
ウエストを抱いてる左手が利き手だってことも知ってる。
視線が合ったので、今度はハッキリとばか、と口を動かして見せた。
にへ、と子供のように相好を崩して笑って、いきなり引き寄せられた。
「ひゃぁ!?」
額に酒臭い唇が押し付けられる。
酒場中から冷やかしの歓声が上がった。
「ばっ、ばかばかなにすんの!!」
「かわいい。エリザベータかわいいなあホント」
手足をばたつかせて、キスをやめようとしない体を押しのけようとする。
ギルベルトはさらにきつく抱きしめてきた。
「離してよ!」
顔も体も血がのぼって、頭がぐるぐるしてくる。
「離すのもったいねー…」
甘えるように首筋に顔をうずめられてぞくっとした。
緊張と興奮で爆発しかけてたいろいろな感情が一気にこみ上げる。
「こ、こ、この…ばかああああ!!」
握り合わせて思い切り振り下ろした拳が、ギルベルトの首の付け根を打ち抜いた。
ずしん、と床にギルベルトが転がり落ちる。
「あーあ」
と店の主人が言った。
「ギルの肩持つわけじゃないが、こりゃあちょっとやりすぎたな。
上の宿でちょっと休ませてやんなよ」
しまった。とは思ったけれど、逃げ道はなかった。
***
なんだかすごく後味の悪い夢を見ていた。
涙をこぼしながら唇をかみしめているエリザベータを罵倒して挑発して侮辱している夢。
だから、目を開けてきまり悪そうな顔でベッドの横にたたずんでいるエリザベータを見つけた時にはよけいに胸が苦しかった。
「ごめんね、大丈夫?」
水のグラスを差し出しながらエリザベータが尋ねてくる。
黙って胸に引き寄せた。
冷や汗が体中ににじんでいる気がする中、彼女の体温だけが暖かくて心地よい。
動悸が治まるまでじっと抱きしめてから、そっと離れた。
エリザベータが握ったままのグラスの水面が揺れている。
彼女の手が小刻みに震えているのだ。
「なあ、エリザベータ」
その手からグラスをそっと取り上げて、小さなチェストの上に置く。
「俺、本当にお前に惚れ込んだっぽい」
「…ばか」
蚊の鳴くような声で呟きが返ってきた。
グラスを握って少し冷えているその両手を取る。
「俺は、海賊なんだ」
エリザベータの体がぴくんと動いた。
「海に落ちて死にかけてるところを、船長に助けられた」
伏せられていた緑色の目が見開かれる。
「それまでの記憶が何もない」
胸に下げているクロスを引っ張り出して、エリザベータに見せる。
「かろうじて、名前だけはこいつで分かった。けど、それだけだ」
エリザベータは半開きにしていた唇を、微笑みの形に作った。
「生きてて、良かっ――――」
「海賊で、記憶もないけど、お前が欲しい」
おざなりな言葉をさえぎるようにぶつける。
「なあ、エリザベータ」
肩をなぞりあげてあごを掬う。
「俺のものになってくれよ」
大事にするよ、好きなんだ、あと何か、いろいろほざいた気がする。
けれどそれよりも何よりも、唇を重ねた瞬間にエリザベータの頬を涙がつたったのが記憶に焼き付いた。
***
エーデルシュタイン家に使用人として上がるようになるまでは、身分は違えど仲の良い幼馴染だった。
性別のことなんか気にしないでじゃれ合っては互いに怒られて、あとでどれだけ叱られたかをまた競った。
けれど実際働き始めてみれば、くだらないとバカにしていた女の仕事の何もかもが案外重労働で、
女らしく振舞って褒められるのもわりと悪いものではなかったりして、
しばらく会わないうちにずいぶん見た目は変わったと思う。
久しぶりに休暇をもらって家に帰って、ギルベルトに会ったら背が伸びていた。
女のまねごとなんかしやがって、と言うので女の仕事の大変さを言おうとしたら、うるさいと逃げられた。
休暇中は顔を合わせるたびにその話をどちらかが蒸し返しては、聞こうとしないギルベルトが逃げる繰り返しになった。
エーデルシュタイン家に上がったのが気に入らないんだろうと父は笑った。
バイルシュミット家とエーデルシュタイン家は親戚で、爵位も同じ。
さらに同い年の男の子がいるもので、常々引き比べられてうんざりしているらしい。
ギルベルトは本気で嫌がっていることは抱え込むタイプだと、エリザベータも学習していたので、
エーデルシュタイン家の話、特に跡取りのローデリヒの話は避けた。
エーデルシュタイン家でギルベルトの話が出ると、こっそり耳をそばだてた。
成長著しく、剣も銃も相当の腕前であると褒められていると、ギルベルトのくせに、と思う。
けれど誇らしかった。
褒められるギルベルトを楽しみにしているうちに、それがどうやらローデリヒへの
叱咤の材料として持ち出されている話題なのだと気づいた。
次の休暇で顔を合わせた時、ギルベルトがエリザベータをバカにする引き合いにローデリヒの名前を出した。
男女入れ替えれば坊っちゃんもつり合いがとれるとか何か、そんな流れだった。
家同士の競り合いに巻き込まれてバカにし合うなんて、それこそバカだと思ったので、
エリザベータは少しだけ、ローデリヒをかばった。
「お前もか」
と、顔をゆがめて吐き捨てて――――
その日以降、ギルベルトはエリザベータの家には現れなかった。
本当に嫌なことは決して口にしないギルベルト。
本当に欲しいものは言い出せないギルベルト。
彼がその時ローデリヒをバカにしてまで守りたかったものがなんだったのかわからなかった。
それがずっとエリザベータの心にひっかかっていた。
***
女の体温とか、声とか、匂いとか、そういったものに興味がなかったわけじゃない。
けれどエリザベータに感じる衝動は、少しベクトルが違う気がする。
結いあげていた髪を下ろしたら幼さは増して、少女っぽさが強くなる。
可愛いと褒めたら照れる、柔らかいと感想を述べたら恥ずかしがる。
獣じみた衝動と、ただ離れたくないという気持ちとが交互に押し寄せて、
閉じ込めた両腕を開きたくない。