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兄さん

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 隣のベッドは空だった。
 すぐに寝直しても良かったんだけれど喉が乾いて布団を出た。廊下に出るとリビングから青白い光が漏れている。
 扉を開けると肩を竦ませた健二が振り返って悲鳴を上げるみたいな口をした。
「テレビ?」
 暗い部屋の中でヒーリングミュージックをBGMに青い海の映像の上部で天気予報を流すテレビモニターだけが明るい。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、なんとなく目が覚めただけ」
 実際、健二がベッドを出たのも気づかなかったし、テレビの音はリビングの扉を開けるまで聞こえないくらい絞られていた。
 ローテーブルの上には麦茶のボトルが出してあったのでグラスだけ持ってきて健二のとなりに腰を下ろす。
 三人くらい座れそうなソファの端っこに健二は座っていた。
「早起きだね」
「一度起きたら目が冴えて寝付けなくなることはよくあるんだ」
「いつもこうしてるの?」
 馴染みのない地名ばかりの天気予報が終わると、昨晩も見たトピックばかりのニュースヘッドラインが始まった。
 朝のニュース番組と違ってアナウンサーがいない。BGMはそのままで文字でくるくる情報を流すばかりのニュースだ。
「いつもはOZをうろうろしてるかな」
「僕が同じ部屋で寝てたから遠慮した?」
「別にOZでもふらふらしてニュース見たりしてるだけだから変わらないよ」
 OZに無人の時間はない。常に誰かがログインしていて、フォーラムの新着は動き続けるし、対戦相手をオートマッチングしてくれるゲームに参加すればすぐに相手が決まる。
 それに比べて天気予報とニュースを交互に繰り返しているテレビは人の気配がない。
「佳主馬くんは結構早起きだよね」
「いつもならもう一時間は寝てるけど」
「下手したら入れ違いに寝てるよ」
「夏の五時はずいぶん明るいけど、寝づらくないの?」
「部屋に窓がないから関係ないかな」
 一戸建ての池沢家で窓のない部屋は物置ぐらいだけれど、言われてみれば健二の部屋には窓がない。
 リビングの大きな窓も遮光カーテンで真夜中みたいだ。透明度の高い海を色とりどりの魚が泳ぐテレビは水槽みたいだと思う。
「こういうの、なんだか新鮮だ」
「静かなテレビが?」
「それもだけど、誰かとぼんやりテレビを見てたり、こんな時間に起きてるのも全部」
「そうだね、俺もこんな時間にOZ越しじゃない人と一緒にいるのって新鮮だよ」
 青い光に照らされた顔を見合わせてくすくす笑い合う。
「OZでチャットしてる時も一人ぼっちだなんて感じないけど、やっぱり違うね」
「うん、わかる」
 声や微かな呼吸音なら電話でも聞こえるし、ソファの両端で触れ合わない体の温度が空気と通して伝わってくるわけでもない。
 それでもお互いテレビを向いて姿が見えなくても、パソコン越しの“一緒にいる”とは違った。
 電話と違って何か話さなくてもずっとそばにいるのが分かる。
 健二が何も言わないので、ループするよその地名の天気予報を眺めていた。そうやって黙っているのがよかった。

 永遠に続きそうな青い海の映像がパッと消えて「ウェザー&ニュース」という番組ロゴが表示されたときは夢から覚めた気分だった。
 番組の終わりと同時に賑やかなCMが始まって、もう朝なのだと知る。
 早朝の胃袋にも遠慮容赦なくグルメバラエティ番組のCMが入ると情けなくも腹の虫が悲鳴を挙げた。
「何か食べる?」
 笑いながら台所へ向かった健二だが、すぐに唸り声が聞こえてきた。
「そういえば昨日パンもご飯も食べきったんだった」
 夕飯が麺だったからすっかり忘れていた。夕飯の買い物の時にでも何か買ってくれば良かった。
「腹の音ほど空腹ってわけじゃないからいいよ」
「でもそろそろ俺もお腹へったし…あ、プリン残ってる」
 ローテーブルに持ってきたのは昨日買ったプリン一つ。
「一個しかなかったんだけど…」
「いいよ、健二さん食べて」
「じゃあ半分こしよう」
 元々そのつもりだったらしい。背中から二本のスプーンを取り出した。
「こういうの兄弟っぽいかと思って」
 嬉しそうに言う健二と砂山でやる棒倒しみたいにてっぺんのクリームに乗ったチェリーを避け、かわるがわる控えめにスプーンを入れながら、小首をかしげた。
「漫画の中の仲良し兄弟、ってかんじかな」
「現実の兄弟ってそうじゃないの?」
「師匠が、兄弟がいるとおやつは取り合いになるって言ってた」
「あー…真緒ちゃんたちがアイスのことで喧嘩してたね」
 曾祖母の栄の葬儀がひと通り終わった後に子供たちへ差し入れられたアイスが余った。それを巡ってチビたちが一つ目のアイスの早食い合戦。
 子供たちが母親たちに怒られている間に遅れてやってきた翔太がひょいっと持っていったものだから非難轟々。
 でも。と、あとひとさじでチェリーが落ちるというところで健二はスプーンを置いた。
「やっぱり俺は今弟が出来たら嬉しくって何でも譲りたくなっちゃうな」
「健二さんのは弟扱いじゃなくて小さい子供扱いだよ。学年三つしか違わないのに」
 なるべく拗ねて聞こえないようさらりと言ってスプーンの先でチェリーを健二の側に落とす。
 健二は苦笑して、それを口に放り込んだ。
「子供扱いなんて……ほんとに嬉しかったんだよ。家出の理由はともかく、うちに遊びに来てくれて」
 やっぱり兄弟っぽくない。本当の兄弟はこんなに素直になれないものじゃないだろうか。
 皿を押して譲られた残りのプリンを素直にかきこんだ。意固地になって食べない方が子どもっぽいと思ったから。



 小磯家で迎える何度目かの朝。
 基本的には早起きでないらしい健二が慌ただしく身支度をしてリビングに駆け込んできた。
 時計の針が八時半を指す頃だ。
「ごめん!今日だけは一度学校に行かなくちゃいけなくて」
 朝まで忘れていたらしい。携帯のスケジュールアラームで起きてから洗面所とトイレと自室を行ったり来たり。ここのところ物理部部室にも顔を出していないために定位置に揃っていなかった制服を探しまわっていたので、説明される前から行き先は予想がついた。
「いいよ、留守番してるから。時間ないんでしょ?」
「ほんとにごめん、昼で終わるから!」
「昼ごはんは?」
「それまでには帰るから一緒に食べよう、いってきます!」
 あまり中身の入っていなさそうな薄っぺらいかばんを担いで出ていくよれた制服姿を玄関で見送った。
「いってらっしゃい」
 留守番といっても健二と同じ部屋でそれぞれにやっていた個人作業が、今日は本格的に一人になったというだけだ。一緒にいても集中し始めるとお互い無言になるし、数日過ごした今、冷蔵庫の飲み物をもらったりトイレを借りるのに断りを入れることもなくなった。
 昨日までと同じにパソコンを開いて仕事をする。
 自分の家にいた時よりよっぽど捗るのでスケジュールにも余裕ができていた。キングカズマのユーザーとして請け負っている仕事に関しては、予定に追い立てられなくても積極的に取り組める。自宅で邪魔が入ることも計算に入れていたが、東京に来てからは時間が余るぐらいだ。
作品名:兄さん 作家名:3丁目