Metronom
「―――さしものおまえでも疲れたか?」
「いえ、それほどでも。疲れて見えるのはシオンさまの気のせいでしょう」
余裕綽々とはいかず、ムウにしては珍しく、約束の期日一杯を要して修復した聖衣をシオンに納めたムウは無意識のうちに溜息をついていた。どうやらそれを見咎められたらしい。
「何か気がかりなことでもあるのか?ムウ」
一つ一つの聖衣を入念にチェックしていたシオンは師としての厳しい瞳を緩めると満足したように「よし」と頷き、来客用のソファーを指し示してムウに座るよう促した。
「本当に、何でもないのです」
あくまで突っ撥ねようとするムウに対して、シオンは半ば強制的にムウを座らせ、シオン自身も卓を挟んで真向かいに座った。そして探るようにシオンは深い色合いの瞳でムウを見た。
ムウが昔から苦手なものの一つであるシオンの瞳が、がっちりとムウを捉える。シオンの深い眼差しはムウの完璧な嘘さえ、いとも簡単に見抜いてしまう。それによりムウは心中を上手に誤魔化すこともできなくて、シオンの前ではいつまでたっても自分は半人前で、大人ではないという気がするのだ。そして、そう感じてしまう自分が子供じみているような気がしてムウは特に苦手意識を持っていた。
「すべてを話す必要はない。ただ、そんな思いつめた顔では儂も干渉せずにはおられぬ。他の者に気付かれる前にしゃべってしまえ。わずかにでも楽になろうて」
「……そんな風に見えますか?」
小首を傾げながら、ムウは目元を緩めた。
「余裕がまったくない。おまえらしくもなく、な」
平然と装っているつもりだったのだが。シオンの目が厳しすぎるだけではないだろうかとムウは思いながらも師の目を欺くこともできないのなら、目敏い者に感づかれることも確かにあるだろうと観念したように溜息を零した。
「仰るとおりですよ。余裕なんてありません。断崖絶壁に立ったといいますか―――突き落とされた?……まぁ、そんなところです」
「随分と物騒だな、それは」
「私としてはね……そう思うのですが。シオンさまから見れば非常に下らない、取るに足らない、つまらないことですよ。シオンさまには何ら関係のないこと、私の問題。放っておいて頂けると有難いものです。それに下手に出られるとお立場上、拙いと思いますしね」
「フン。可愛いげのない口を利く……おかげでわかったわ、その手の問題は――アレだな?確かに儂がしゃしゃり出る幕は無いな」
深々と椅子に身を預けたシオンは意味深な眼差しを送ると瞑目した。本当にわかっているのかどうか怪しいところだが、下手に問えば薮蛇の墓穴堀であろうとムウはだんまりを決め込んだ。
「何事もその手のことは謀のようにうまくはゆかぬ、歯痒いもの。突き落とされもすれば、天にも昇る気持ちにもなれる。人であれば誰もが味わうし、若ければなおのこと。策を弄したところで手に入れることなどできぬ見えぬ宝石。その価値さえも手にした者にしかわからぬ」
両腕を組み、感慨深げに語るシオン。師にもそんな想いで満ちた時もあったのだろうかとムウが思っていたところ、徐にシオンはにんまりと意地の悪い笑みを浮かべて立ち上がった。
「ま、大いに悩み、そして苦しめ。若造よ」
「それが愛弟子に言う言葉ですか?」
「放っておいて欲しいのだろうが。それに愛弟子なればこそ…だ。師はいつでもおまえのことを思っている」
「元はと言えば――シオンさま、元凶は貴方にあるかもしれないんですけれども」
「人のせいにするな」と窘められたムウは首を小さく竦めると執務室を後にした。ほんの少し、肩の荷が軽くなったような気がしたムウは僅かばかりシオンに感謝した。
兎にも角にも。
まずはミロが言っていたことを確かめる必要があった。取り越し苦労かもしれないし、ミロに不審がられるかもしれなかったけれども、事実をちゃんと把握しておくべきだと踏んだムウは天蠍宮へと足を向けた。
ただの一人合点であったなら、そのあとでシャカのいる処女宮に寄ってきちんと話をしようと心に決めていた。だが、予想通りの関係だったら……?どうすべきか――ムウにはわからなかった。
「ミロ、いませんか?」
プライベートゾーンに踏み込んだムウは声をかけたが、ミロの返事はない。けれども気配はうっすらとだが感じた。眠っているのだろうか。
「そういえば……勅命明けでしたよね」
わざわざ起こしてまで尋ねるような用件ではない。出直したほうがいいかもしれないと踵を返したムウははっとしたように振り返った。
「そんな……まさか……嘘でしょう?」
跳ね上がる心臓。早すぎるリズムで鼓動し始めた。
ムウは黒い染みのようなものが心に広がっていくのを感じながら、ふらりと前に進み出る。虚脱しそうな脚を叱咤しながら真っ直ぐに伸びた廊下の奥を目指す。薄暗い廊下はグニャリと歪んで足をとられるような感覚に陥りながらもムウは手を壁について身体を支えながら進んだ。
行ってはいけない。
見てはいけない。
確かめてはいけない……。
悲鳴にも似た心の叫びを聞きながら、歪んで見える扉の前にようやく辿り着いたムウは小さく息を呑んだ。ドアノブを掴もうとした手を焼きごてに触れたようにビクリと一度引っ込めたムウはゴクリと唾を飲み込むともう一度、恐る恐るそのドアノブに触れ、ゆっくりと回した。
カチャ……。
小さな音を伴いつつ、僅かな隙間を作って見せた扉。その中を覗き込んだムウはあがりそうになる声を押し止めるように口を手で覆った。そして、大きく見開いた瞳に飛び込んだ映像に網膜を焼かれたかのようにムウは顔を歪めた。
床には脱ぎ散らかされたままの衣服、ソファーの上には眠るミロの姿。
そして、ミロの腕の中には――安心したように眠るシャカの姿があった。
そのあと、どうやって戻ったのか記憶も曖昧だった。
我に返った時には服を着たまま浴室に座り込み、冷たいシャワーを浴び続けていた。すっかり身体は冷え切り、奪われた体温。がたがたと震える体を温めようとムウは熱いシャワーへと切り替え、うまく機能しない手でなんとか濡れた衣服を取り払った。
とても大切な人。
特別な想いを抱いていた人はとっくに人のものだったなんて
信じられない、信じたくはない――
奪われたのは体温だけではなく、ひび割れていこうとしている……この心かもしれない。
熱いシャワーを浴びながらムウはクスクスと嘲笑し、砂を噛んだように顔を歪めて嗚咽を漏らした。