Metronom
シャカが一人で奥の間から出てきたのを怪訝に思った童虎は呼び止めた。
「もう終わったのか、シャカ。ムウは目覚めたのか?」
「……いえ、老師」
言い澱むシャカは不機嫌というよりも後味の悪いといった風であった。
「ふむ。なんぞシオンがバカなことを言ったか?」
小さく頭を振ったシャカであったが、気になるのだろう。今しがた歩いてきた奥の間の方へと顔を向けた。
「怒らせてしまったのだと思います。何を意地になったのか……私は」
「もし、おぬしが後悔しているのならば。今からでもほんの少しでいい、あの偏屈爺に力を貸してやってくれんか?おぬしの力なくして、あやつ一人で無茶をさせるとムウの命もあったものではないからな」
珍しくシャカが悔いているようにみえた童虎はやんわりと言葉をかけた。どうせシオンがシャカの神経を逆撫でするような下手を打ったに違いない。少なくとも童虎にはシャカがここに来る時、嫌々ではあったが協力しようとする姿勢が見て取れたから。
殊更に笑顔を強調しながら迷うシャカの背中をポンと押すようにして重過ぎない言葉を選んだのが功を奏したのか、ほんの少し強張らせていたシャカの表情が解れたようだった。シャカの肩に手を回し、いざ共に行かんと奥へと向かいかけたその時だった。シオンの小宇宙。それが爆発的に膨れ上がっているのを感じた。
「シオン?――あの大馬鹿者が!」
「……っ!」
共に異変に気づいたシャカは言うが早いか、姿を消した。一瞬呆けた童虎が慌てて奥の間へと駆けた。奥の間へと続く廊下がひどく長い道程のように感じながら、辿りついた扉をバンと勢いよく童虎が開け放つと、そこには瞬間移動したシャカの姿があった。ただでさえ、聖域は瞬間移動するのが困難だというのに、しかもこの教皇宮は女神宮同様、強固な結界が迷路のように張り巡らされている。正確に瞬間移動することは万に一つの確立であり、童虎やシオンでさえ難しいものであったが、その正確無比さに童虎は舌を巻いた。けれども、それはほんの一瞬であった。
見えぬ壁に背もたれるようにズルズルと崩れ落ちていくシャカを見て、童虎はドッと冷汗が噴出した。シオンはといえば、目の前で起きた事を理解できないとでもいったように唖然と立ち尽くしていた。
「何をボウッとしておる!シオン!!」
恫喝によってようやく我に返ったシオンが慌ててシャカの元へと駆け寄る。童虎もそれに続いた。シャカは聖衣を纏っていたわけではない。加えて渾身の力をシオンは放っていた。それは致命的なもの――あってはならない『事故』。
跪いて動揺する心を反映するかのように小刻みに震える手を伸ばしたシオンが、ぐったりと生気なく横たわるシャカを抱え上げた。童虎は息を呑みながら、その様子を見守っていたが、恐る恐る声をかけた。
「息は……?」
「――ある。よかっ……ムウッ!?」
ホッと安堵の息を漏らすと同時に驚きの声をシオンが上げた。
「シャカは大丈夫でしょう。多少の衝撃を受けただけ――じきに目を覚ますと思います。コンマ一秒、私の障壁の中に入れるのが遅れていたら……ゾッとしますが」
「ムウ……」
ゆっくりと身体を起こしたムウは寝台から降りると、床に跪くシオンとそのシオンに抱き抱えられていたシャカへと近づいた。
「私の為にしたことだったとしても。もし、万が一にでもシャカに何かあったなら……私は……たとえシオンさま、あなたでも許さなかったでしょう。シャカも。そして何より、この私自身を許さなかった」
シャカへと伸ばしかけた手をギュッと握り締めたムウは未然の結果を想像したのか、声を震わした。そんなムウにシオンは有無を言わさず、強引にシャカを押し付けた。
「!?」
呆気にとられながら、シャカを押し付けられたムウがそれでも大事そうに抱える姿が童虎はひどく滑稽に思えた。滑稽といえば、シオンもだ。顔を真っ赤にして、への字口で必死に怒りを押さえ込んでいるようである。
「―――ならば、二度とこのようなことをするな!己の心を強く持て。他人を振り回すな!わしを困らすな!……此度のことを踏まえてよく考えろ。シャカに何があるとも限らぬ、おまえに何があるとも限らぬ。後悔したくはないだろうが?」
しばらくの間、シオンを茫然と見つめていたムウであったがシオンの言葉を咀嚼し嚥下するかのように頷いた。
「――はい」
うっすらと目元を赤くし、消え入りそうな声ではあったが、それでもムウは決心したように童虎にはみえた。たぶん、シオンも同じように思ったのだろう。シオンはようやく表情を和らげ、ムウの頭をクシャリと撫でた。昔、ムウが初めて技を成功させた時にも同じことをしていたな……ふと、そんな古い記憶を思い出し、感慨深げに童虎は微笑んだ。