420の日
「い、いったひなにふるんでふか?」
思いっきり顔を掴まれている為、上手く喋ることも出来ない。視界も当然塞がれていて、トムさんがどんな表情をしているかも分からない。
「わ、悪い! が、何も聞かずこのままの状態で歩いてくれ!」
珍しく動揺した声を出すトムさんに俺は詳しい事情を聞きたくなったが、どちらにしろこの状態では無理な話だ。俺は仕方がないので、数度頷いて、トムさんに従うと意思表示した。
俺はトムさんに顔を掴まれた状態。トムさんは――恐らく背伸びをした状態で――俺の顔をガッチリと掴んだ状態。傍から見れば奇妙な光景だっただろう。
トムさんの指示に従い、しかし視界の塞がっている為、ゆっくりと移動した俺達は大通りから抜けた路地裏で漸く足を止めた。俺の顔からもトムさんの手が退けられた。
いくらガッチリと力を込められて掴まれていたとはいえ、俺にとっては痛くも痒くもない。ただ、少し屈んでいた腰をぽんぽんと数度叩いた。
「……悪いな」
煙草に火を点けたトムさんは煙を吐き出しながらそう呟いた。俺は小さく「いえ」と答えると、しかし問うた。
「でも、いきなりどうしたんですか?」
「いやー、ちょっとな……。俺には俺の事情っつーもんがあるわけよ」
「事情って……俺の顔を掴むような事情なんすか?」
いくらトムさんだとは言え、さすがの俺でも不思議なものは不思議だし、疑問に思うことは問う。
トムさんは困ったように頬を掻き、「あー」や「まあ、その」など珍しく歯切れの悪い様子を見せる。
余程俺に知られたくないのか、それとも知らせたくないのか。どちらにせよ俺に関係することだろう。
無理に聞き出すのもあれだと思った俺は、同じく煙草に火を点けて汚いビルに身を預けた。――あ、服汚れる。帰ったら洗濯するかクリーニングに出すか確認しなくちゃな。
沈黙が流れること数分。二人の間でそれは珍しいことではないが、だが、トムさんが俺に対してこんな風に気まずそうに視線を逸らすことなんてそうそう無いことだ。だからだろうか。俺は少し寂しく感じてしまった。
寂しさを誤魔化す為に俺はいつも以上に煙草の煙を深く吸い込んだ。
二人分の煙草の煙が路地裏に漂う。
口火を切ったのは俺の方だった。
「トムさん。言いにくいことだったら別に無理して言わなくていいですよ」
「……静雄」
「気にならないって言ったら嘘になりますけど、トムさんがそうするのにはきっと訳があるんでしょうから」
「すまねーな」
「いえ。それに今日は俺トムさんにいっぱい迷惑かけちまいましたし」
「じゃあ、お相子ってことで」
「はい」
フッと息を抜いたように俺達は笑い合った。
結局トムさんの言いたくない事も、行動の理由も一切分からなかったが、俺はそれでいいと思っている。
トムさんが俺のことを考えてしてくれたことなら、きっとそれに間違いはない筈だから。
帰り際トムさんにしつこく家まで送っていくと言われたが、さすがにそうされる理由は分からなかったし、そんな事してもらう訳にもいかなかったので、何とか断ると俺はトムさんと別れた。
「しっかし、今日は本当に変な一日だったな」
セルティや門田らに会ったことはトムさんの言葉で片付ける事が出来たが、最後のトムさんの行動も思えば総して「変な一日」と評しても間違いはない。
トムさんに去り際通るなと言われた道を気をつけて避けながら家に帰るといつもより倍の時間がかかってしまった。しかし、これもトムさんが俺を考えて言ってくれたことだから俺は特に苦には思わなかった。
しかし、家に辿り着いた俺を待っていたのは「奇妙な一日」になった『理由』と、そして、今日一日我慢しまくった怒りの爆発だった。
大きな白の垂れ幕は俺の住んでいる建物の壁にデカデカと貼り付けられ、文字は布一面にはみ出さんばかりに書かれていた。
【今日は何の日? 4月20日! 良い子は皆で会いに行こう! 420(静雄)君に!】
そして、文章の最後には俺がこの世で最も怒りを抑えることが出来ない人物からの憎たらしいメッセージ付で。
【今日一日いろんな人に会えて幸せだったかい? やっぱり最後の締めは俺じゃないとね】
ハートマークが付いたそれを全部読みきった瞬間、俺の怒りの沸点はとうに限界を向かえており、こんなふざけた真似をした野郎が居る場所へ向かった。
そこは、そう俺の部屋だ。
「おかえりー、シズちゃん」
勝手知ったるなんとやら、で臨也は俺の部屋のソファで悠々と腰を落ち着けていた。
鍵を開けるのももどかしく、鉄の扉をいとも簡単に蹴り飛ばして姿を現した俺に臨也は憎憎しい笑みをこちらに向けてくる。
「てめぇ! 臨也ぁぁぁぁっ!!!」
目の前のムカつく顔を殴ってやろうと拳を振り下ろすが、身軽に避けられて代わりにソファに穴が開いてしまう。舌打ちをして腕を引っこ抜く。
「あ、見てくれたんだ」
「あんな家の前にデカデカと貼ってりゃー嫌でも見るだろうが!」
「ん? 家だけ? 他のは?」
「はぁ!? 他だと!?」
あんな馬鹿げた垂れ幕を他にも仕掛けたというのか。このゴミ蟲は本当に殺してしまわなければならない!
「その様子だと見てないんだね。おかしいなー。ドタチン達は見たらしくて連絡くれたのに」
見た? 連絡?
点と点が線で結ばれて、漸くトムさんの行動の意味にも納得がいった。
途端に何だか力が抜けて、俺は穴の開いたソファに腰を落とした。
「……全部てめぇの仕業だったのかよ」
俺の隣に笑顔で腰を下ろした臨也は、妙にその距離を縮めてくる。
「仕業だなんて嫌な言い方しないでよ。俺はただシズちゃんに日常とは違う日常を味わって欲しかっただけなのに」
「いかにも良い事しましたみたいな面すんじゃねー」
「あれ? してない?」
「あのなー」
「だって、今日一日シズちゃん楽しくなかった? 色んな人に会えて、色んなことを考えて。毎日毎日繰り返しの日常よりも、とっても素晴しい一日だったと思うけどね」
いつの間にか肩に回された腕。そして、俺が動けば触れてしまうぐらい近く寄った臨也の顔。
「本当はね。俺だけが独占出来る計画も立ててたんだけど、俺すっごいシズちゃん想いの優しい人間だから、こっちにしてみたんだ」
褒めて、とばかりに俺の頬に鼻を擦りつけてくる仕草は犬を連想させる。こいつの場合駄犬だがな。
「……自分で言わなければもっといいんだろうがな」
「あれ? じゃあ、少なくとも嫌ではなかったんだ?」
にまにまと笑うこいつは本当にムカつく野郎だ。ムカついてムカついて殺したい。
なのに、どうしてだ。いつも殺せない。
こいつが逃げる所為もあるが。最後の最後でいつも俺の手は止まってしまう。
一体何でだ。
何となく目の前のゴミ蟲に聞けば答えが返ってきそうだが、それは俺のプライドが許さない。
こいつに分かって俺に分からない。そういうことは高校時代から何度となくあったが、今回の、この理由だけは俺が導き出さなくてはいけない気がするのだ。