美由紀
まったく地に足が着いていなかった。
中断後のゲームは、まずわたしがダブルフォールトをやらかして15-30となり、次のポイントは入れにいった甘いサーブを強打されてリターンエースを取られ、15-40、最後はリターンは何とか返せたものの、浅い力のないボールを決められ、あっさりサービスゲームをブレイクされてしまった。ゲームカウントはこれで1-3となった。
泣きたい気持ちで観客席を振り返った時、コーチが誰かと話しているのが見えた。
パパだ。少し遅くなるけど試合を見に来るって言ってたけど、やっと来たんだ。
コーチから今の戦況を聞いているらしい。パパと目を合わせれば少しは落ち着くかも、と思ったのだけど、その時わたしはパパの横に女の人がいることに気づいた。
遠いので顔はよくわからないけど、すらっとしたスタイルが良い人だ。そういえばパパ、今日の試合に誰か友達を連れて来るって言ってたような気がするけど、女の人だったなんて。もしかしたら前にパパと約束したとおり、パパがつきあっている人をわたしに紹介するつもりで連れてきたのかも。
紹介はいいけど、何も娘が死刑台の階段を昇っている気分を味わっているところに連れてこなくったって。相変わらず空気が読めない人だ。
なんか、無性に腹が立ってきた。女の人もなんか澄ました感じだし。
次のゲームも流れはまったく変わらなかった。辻本さんの強力なサーブで簡単にサービスキープされ、ゲームカウントは1-4になってしまった。
ゲーム中、わたしは昨夜のことを思い出していた。
わたしが自分の部屋からリビングに出ると、ママとあの男がソファに座っていたが、その瞬間、空気が変わった気がした。和やかだった時間が一瞬だけフリーズして、二人が急いで「わたし用の顔」を作っているような。ママとあの男が二人でいる時にわたしがその場に入ると、いつも微妙に空気が変わるのを感じる。
わたしはそれに気づかないふりをしながらママに話しかけた。
「ママ、明日の大会のためのワッペンをみんなで作ったから、ウエアに縫い付けて欲しいんだけど」
ママはわたしに笑顔を向けて立ち上がろうとしたが、それをアイツが遮った。
「美由紀ももう中学生なんだから、自分のことは自分でやらせなさい」
ママは腰を浮かせかけた姿勢のまま、アイツとわたしの顔を見比べていた。
「いいよ、自分でやるから」
わたしはそう言い捨てると、アイツの顔は一度も見ずにリビングにある裁縫道具を持って自分の部屋に引っ込んだ。
ムカムカしながら裁縫を始めたので、ウエア一着にワッペンを縫い付ける間に二回も針で自分の指を刺してしまった。その痛みがわたしの鬱屈した感情を増幅させた。
二着目のウエアにとりかかろうかという頃、ドアがノックされてママが部屋に入ってきた。
「あと何着あるの?」
ママはそう言いながら大きなお腹を持て余すように床に座った。普通に座るのは辛いらしく、何回か座り直していたけど、壁にもたれながら座るのが快適らしく、ようやく落ち着いて私を見た。
「ほら、貸しなさい」
そう言ってママはわたしから三着のウエアとワッペンを受け取って、器用な手つきでワッペンをウエアに縫いつけて始めた。
ママが裁縫をするのをじっと見ていると、さっきまでのささくれだった気持ちの棘が丸くなっていくのを感じた。同時に臨月で大きなお腹を持て余しているママに気安く頼みごとをしたのが申し訳なく思えてきた。
「ごめんね。ママ」
私がそう言うと、ママはびっくりしたように目を丸くして私を見つめた。
「だって、そんなに大きなお腹でしんどそうなのに、気軽に頼み事なんてしちゃって」
わたしがそう言うと、ママは微笑んだ。
「少しは動いた方がいいのよ。それにこのくらいのことは何でもないわ」
そう言って再び手元に目をやり、裁縫を続ける。わたしはそんなママをずっと見ていた。穏やかな時間が流れた。ずっとこんなだったらいいのに、と思った。
「美由紀、ごめんね」
ママが最後のワッペンを縫いつけながら言った。
「なにが?」
嫌な話になるんじゃないだろうか。そんな気がしてわたしの声が低くなった。
「あの人があなたに辛く当たるのは、あなたが嫌いだからじゃないのよ」
ああ、やっぱり。せっかく幸せな気持ちだったのに。
「アイツの話なんてしたくないよ」
「あいつじゃないでしょ。お父さんでしょ」
「アイツはわたしのパパじゃない」
ほんとにその話はしたくないんだよ、ママ。
「美由紀、お願い」
ママがわたしの手を取ろうとした。わたしは反射的にその手を払いのけてしまった。
「アイツはママがパパと離婚する前から、この家に大きな顔して入り込んできたんだよ。一度だってここで一緒に住んで良いかなんて、わたしに聞かなかったよ。当然のような顔してこの家に入り込んできたんだよ。そんなやつをどうしてお父さんって呼べると思うの?わたしはアイツのこと、大嫌いだよ。どうしてママはそんなことを言えるの?そんなことをわたしに強要するくらいだったら、パパと一緒にわたしも捨ててしまえば良かったじゃない」
突然、頬に衝撃を感じた。一瞬、何が起きたかわからなかったが、ママがわたしの頬を叩いたらしい。怒りに震えたママの目の中に悲しみの色を見つけると、言い過ぎていることがわかっているのに、さらにママを怒らせたい気持ちになってしまう。
「アイツとママはどうしてわたしを捨ててしまわないの?パパからの養育費が惜しいからでしょ。わたし、パパからどれだけもらってるか、知ってるよ」
全部言い終わらないうちに再び平手打ちがきた。さっきより強烈で頭がくらくらするほどだ。わたしはなぜか、自分の頬から鳴る音が小気味良い、とさえ思った。
「出てってよ」
わたしが静かに言うと、ママは涙を拭きながら部屋を出て行った。
最低だ、わたしは。
せっかく穏やかな、自分が欲しかった時間に浸っていながら、自分からそれを壊してしまう。養育費のことなんてただの言いがかりだということはわかってる。ママが離婚前にアイツとつき合っていたことも、パパから聞いた話でママにも「言い分」があることはわかっているつもりだ。このことを持ち出すことでママがどれだけ傷つくかも知っているつもりなのに。それでもアイツをどうしても受け入れる気持ちになれないことをわかって欲しかっただけなのに。
こんな最低なやつ、居場所がなくなって当然だ。
チェンジコートのためにベンチに戻ると、亜紀が泣きそうな顔をして私を待っていた。きっと私も同じような顔をしているのだろう。
テニスは試合中に選手に対してアドバイスなどをすることは禁じられているが、団体戦に限りベンチにコーチングスタッフを配置し、奇数ゲーム終了時のチェンジコートの際にコーチングをすることが認められている。
とはいっても、勝負どころと読まれていたダブルスやしのぶ先輩には顧問の先生やコーチがついていたが、捨石の試合のはずだったわたしには特に誰もおらず、テニス部で一番仲がいい同級生の亜紀を、わたしから希望してつけてもらっていた。
わたしは亜紀からタオルとドリンクを受け取ると、ベンチに崩れるように座った。