記憶
願っていた通りの六つ半頃に、鳳凰は何とか街道筋から少々奥まった外れの木賃宿に潜り込む事が叶った。
先に彼が思っていた通りに、美味い酒や見目佳い女はおろか、旅人の気を引く気の利いたものは一切無い、ただ泊まるだけの場所である。
迎える灯りが僅かにしかない入口に、三畳分にも満たぬ狭い玄関がありそこで今まで続けていた山道での“渡り”で汚れた草鞋を脱ぎ泥を払えば、宿の者に嫌な顔をされる。
そういう場所ではあったが、一晩身を置く事が出来ればそれで良いのだ。そう思い鳳凰は歩く。
板の間を通りながらすでに何名かの者がいる台所を横にし、縦にほぼ直線に伸びた中廊下を進む。たった二つだけの客間の壁一つで仕切られた女部屋の一つ手前にある十二畳間が今日、鳳凰が身を置く場所であった。
この宿に入った時間は既に遅い。十二畳間には先に五、六名の男客が入り、ひしめき合う程ではないが、その狭さの中で精一杯に寛ぐ者、日により変色した古畳の上にそのまま寝転がる者、明日の出立の為に身支度を始めている者等、客達はそれぞれ思い思いの行動を取っている。
混み合ってはいたが、鳳凰は彼特有の人好きのする表情で先客に一言を伝え、少しばかり詰めてもらい、やや廊下寄りの一角に場を得た。
古畳にどかりと投げるように行李を置き、崩れるように座り込む。
足を締め付けている脚絆の窮屈さを嫌い脱ぎ捨て、ようやく少しは身軽になったと、付近の先客に迷惑が掛からぬ程度に、やや遠慮をしながら足を投げ出し、大きく息を吐く。
巳の刻頃から辺地の村を目指し歩いて仕事を行い、そして今迄渡りを続けて来た。
……一日中動き通しである。
まだ若く、その特異な血により常人を遥かに凌ぐ身体能力を持っていたが、強行軍により流石の鳳凰にも疲れが出ていた。
……早く俺が、いや、仮に俺でなくとも龍叉様か同じ立場の者であった彼等か或いは黒服の追忍か……とにかく、己の者の内何れかが天魔を……覇王とその下の者を何とかしなければ。
足を投げ出し座り込み両手を着いた低い姿勢のままではあるが、こんな所で疲れを感じていては先が思いやられると、鳳凰は意識せずに自らを叱咤していた。
だが肉体の疲れが心中の思いを勝り自らの思い通りとならない。
鳳凰はしばらくの間何もせず、身を投げ出した状態でぼんやりとしていた。
体の疲れが徐々に取れていく。
その心地良さに身を任せていると、ふと大部屋の様子がおかしい事に気づく。
おかしい……五、六人の先客は全員、大部屋の中に居たままなのであるが、彼等全員が静まり返り粗末で古い十二畳間が異様に静かなのだ。
何があったのかと竈寄りの中廊下に体ごと向けると、鳳凰はあっと小さく呟いた。
天翔が狂人(これ)と言い、自分が妙だと思う不可解な男が中廊下を歩いている。一見ただそれだけの事であるが、大部屋の中の男客が皆黙り、宿の者達ですら身を固くしたのは男……浪人と言うこの行き詰った時叛宮にはどこにでもいるただの無頼の者ではあるが、彼が出す気配に圧されたからであろう。
かつて一度邂逅した事のあるこの男……名は鴉と言う。
あくまで想像ではあるが、齢は三十に届かぬ位であろうか。上背は六尺と、鳳凰よりやや高い。
男……鴉の異常さを際立たせるものは、先ずその体つきである。
膨らみが何もない肉のない削げた頬、肋骨の浮き出た様など、さながら余命幾ばくもない病人のように痩せ細っている。目方については男にしても高めの上背でありながらも通常の娘達と左程変わらぬ位しかないだろう。
その、本来であれば歩く事も難儀であろう骨と皮ばかりの体と、人を遠ざけ恐怖させる……虚無的な表情とどこか正常さを欠いた雰囲気が何よりも人を遠ざけていた。
先述した通り鴉と対峙し……いや、正確には彼から一方的に斬りかかられたナツメは鴉を嫌がり、対峙する前にまず話す事を方針として掲げる戦鬼達の中では珍しい穏健派と言えるだろう鳳凰でさえ、この戦鬼……戦鬼であり同じ血は確実に持っている。理由は無いがそう断言出来る……しかし自分達とは何かが違うと微妙な違和感を抱くその正体が何者であるか未だに分かりかねている鴉に対しては警戒の念が強く、けして近付かずに離れて存在を認識する事をよしとしていた。
寛いだ姿勢から一転し、自らの武器……三鈷の両端から自らの特異な力により“気”を作り、それを双剣とする“迦楼羅”を掴み、立ち上がる。この血に依る力で三鈷の両端に双剣を作り、だからこそ武器の名を迦楼羅……“三鈷双剣”と言うのだが、室内では刃を出せない。“気”による力の刃を出せばここに泊まる者達は鳳凰をこう罵るだろう。
「化物」と。
対し鴉はこの男部屋の客達の寛ぐ頭が見えた時から鳳凰の姿を確認していたようだ。身を震わせ自らを避ける客達を意に介さずに鳳凰が身を置く一角に向かい歩いて来る。
いよいよ以て足を張り、鳳凰は構える。
未だ正体の定まらぬ己の血を持つこの男、分からぬ事ばかりだが強い事だけは確実である。
近付き、眼前にやって来るこの男が自分の命を断とうとしているのならば、他の客とこの安宿自体を巻き込む訳にはいかない。自分と鴉と……特異な血を持つ者が備えた力と、その者同士が戦う事になれば途方もない被害が出るだろう。
背に汗が伝う程緊張し、こちらに歩み寄る鴉を強く睨み鳳凰は言い放つ。
「ここではまずい、外に出るぞ。」
既に戦いが始まったかのような口調で、今にも歩き出しそうな鳳凰を見た鴉は一瞬だが驚いたように目を見開き、そしてああ、と言った表情で三鈷を持ち構えたままの鳳凰を眺めた。
「今は戦わんぞ」
鳳凰の想像を悪い意味でなく裏切ったその大変意外な一言の次に更に鴉の言葉が続く。
「俺はただ……この安宿で一晩泊まるだけ、そう、泊まるだけだ。」
思いがけぬ言葉に鳳凰は目を見開き注意深く鴉を凝視していたが、何と狂人のその言葉に偽りはないようだ。天剛達から伝え聞いた天翔の話……頭のやられた男の武器は奴の名通りの生き物だと、その存在が鴉の側に控えておらず、何より中廊下を歩いていた時に出していた威圧感漂う嫌な気配……今から鳳凰と戦うのであれば彼が意図して放ち、増幅させるであろうその気配が大分薄れている。
加えて持った実力による余裕から来るものであるが、退魔師として対峙した魔の気配に敏感な鳳凰は、泊まるだけ、と二度繰り返した鴉に何か引っ掛かるものを感じ取った。
その印象は以前に自分が会った時と天剛が話していたこの男……つまり自分とナツメ達が思い描いている鴉とはまた違ったものであった。
虚無感と狂気が大分に薄れた鴉は却って不気味ではあるのだが、今は戦わんと言う戦鬼に戦いを仕掛けるという、極めて無謀な挑発行為を取る気はなかったので、構えだけを解いて鳳凰は自然体の姿勢となった。
戦鬼であり自分達と同じ血を持つ男であるがそれ以上の事……この男の正体、即ち彼が遠い記憶の中遥か遠い過去に我等一族の内の何者であったのか、それは未だに分からない。
龍叉様に対する殺意の行方を除けばまだ正常ではあろう黒服の追忍より先に、鴉と戦わずにこうして再度相合う機会が出来るとは思っていなかった。