記憶
黒服の追忍と最早話など通じぬ天魔……覇王と覇王の下の者と同様に情報の不足している同族であるその鴉について知って置く事は悪くはない。
何より眼前のこの今はただ狂人の印象しか持っていない男についてを知り、自らが長年唯一思い続けていた疑問……自分自身の存在理由とこの大いなる戦い、そして遥か過去の事がまた一つ、割れた器の破片を集めていくように分かって来るのではないか。
記憶の断片を集めている己は、紛れもなく鳳凰自身である。
三鈷を持ち構えていた鳳凰がその姿勢を解き、何より人離れした威圧感を出していた鴉のその気配が幾分か薄れたので大部屋の男達の緊張は解けて元通りとなった。
やはり本当に今は戦わないらしい。鴉はそのまま中廊下側の鳳凰の横に座り込んだ。廊下側のその一角はすでに先客がいた場所であったのだが鳳凰の元にやって来た鴉に怯え、逃げるように移動し、既に去っていた。
ぽっかりと無人となったその一角に、何事もなかったように鴉は身を落ち着けている。
鳳凰のものよりもずっと粗末な竹行李をぞんざいに放り、大した警戒心もなく必要な肉も付いていない細い両足を伸ばし、お前は座らんのかと鳳凰の方は見ずに呟いている。
鴉は痩せ過ぎて骨が浮き出そうな両手を畳の上に着いている。
武器……得物であるカラスを持たず、この体勢では……信じられぬ事だが、骨と皮ばかりの片腕で相手を宙吊りにするように持ち上げ体に穴が開くのではないかと思う程の威力で殴打するらしい。そう言ったこちらの命に関わるような攻撃を行う事は出来ないだろう。
この正体の掴めぬ不気味な男に自分がどれ程緊張しているか、情け無いが内心は身震いをしている思いを噛み締めつつ、万一のことを考え鳳凰は鴉からやや離れ古畳に尻を置いた。
その距離と直ぐに立ち上がれる鳳凰の姿勢から、自分への強い警戒心を感じ取ったのだろう。
鳳凰や、邂逅した戦鬼達が皆寡黙だと感じるであろう鴉が特に意味のあるとは思えぬ事柄を、つらつらと話し始めた。
……仕事が少なくなった。前置きするかのように先ず、そう言い。
……以前西国の高利貸しに用心棒として雇われた。善人か腹に一つも二つも抱えた奴か。自分が言えた立場ではないが、高利貸しは黒く、しかし小者であった事。だが戦いが続き先が不透明な中で金払いが良かったので雇用主としては良かった事。
その者からかなり高額な手付金を得て、いつも通り無事に仕事を終えれば、少しの間は儲けの少ない、つまらぬ小さな仕事を行う必要はなかったと言う事。
「……そのままいけたのかも知れぬな、奴と、……あの者の元へ」
その言葉にはっとなり振り向いた鳳凰には一切構わずに、鴉は独り言のように続ける。
……腹黒いが小者の西国の高利貸しの用心棒となり、屋敷を襲った町民達は返り討ちにしたが、高利貸しは町民達に刺し貫かれ、死んだ事。
そして今自分は懐具合があまり良くない事、
お前もそうなのであろう。だからこんな安宿に身を置いているのだろうと鴉はからかうように言う。
戦いが激しくなり明日の見えぬ状態だ。だから我等の雇用主である富裕層の殆どは蓄え始め、人に掛かる……つまり自分達浪人に掛ける金を削っている。
だから仕事がないと、話の始まりと同じ言葉を呟く。
「一時は落ち着いていた戦いが激しくなったのはあれのせいだ。奴……あの者が今の権力者達を影で操り戦乱を起こしているからだ。あの……」
そこで鴉は何か言いかけようとしたが口を閉じ、逆に何か声を発さなければ落ち着けなくなった鳳凰が、「なあ」と言葉を発した。
しかし、その先が続かない。
何が言いたいのか分からないが、何か言わなければいけない……
多分、その言わなくてはいけない内容は少なくはない。何かがあった筈なのだが言葉として表現が出来ないので、何とも言えぬ。
ただ、遥か過去の断片を辿り、形なきそれらを知った際に遠い記憶が頭の中と心に焼き付き、甦る。
それが鴉の声を聞き、一気に押し寄せた感触であった。
しかし鴉には悪いが……彼が腹黒の西国の高利貸しに雇われ、働いていたが雇用主は途中で死亡した。本来は得る筈だった報酬が失せ、おまけに仕事自体が少ない……雇用主が殺された下りこそ物騒な出来事ではあるが、一般の浪人の少なくはない、平凡で半分愚痴にも聞こえるこの話のどこにその様な思いを抱いたのだろうか。
沈黙が続く中、鳳凰はしばらく考えあっと思い至る。
“奴とあの者の元へ”
“戦いが激しくなったのは奴とあの者のせい、
戦乱を起こしている、……あの……”
鴉の口からこれらの言葉を聞いた時に鳳凰は振り向き、終いには尚も話そうとする彼の話を中断し声を発した。
その時だ。その時に自分は何か特別なものを感じ取ったのだと鳳凰は思う。
だが、彼が今言った“奴”と“あの者”については他の戦鬼達の口からも彼等を示す言葉を(敵意と嫌悪と悪評と共に)何回か聞いている。
では何故鴉が彼の者達の事を言っただけで自分はこうも強く反応したのか。
再度考えて鳳凰はある事に気付いた。
鴉は上空の城に封印されたあの男……凶明十五年の今諸悪の根源と呼ばれ、この大いなる戦いの紛れもなく渦中に存在する中心人物を奴と言い、しかしあくまでそれに付随する、奴の下で動く下の人物を「あの者」と言っている。
何故だろうか、そこが非常に引っ掛かる。
そう思い鴉の方を見て、鳳凰は彼の表情の思わず目を見開き驚いた。
虚無と狂気のみを貼り付けた、常に酷薄そうなこの男が……
何か堪え切れぬものを抱え込んでいるような、ともすればその形無い大きなものに押し潰されそうな……不安気な顔つきをしている。
恐らくはこの男が生涯初めて抱いたであろう行き場のない思いを持て余し、どうし様もなくなり、ただ口を開き、つい今迄は取り留めのない事を話し続けていた。その様な気配であった。
眼前の男が純粋に狂人でただの妙な男であるのならばこのような顔はしないだろう。
同じ血を持つ謎の者、として鴉についてを知りたいという思いも存在していたが、鳳凰の中に人としての情が動き始める。
(話をしたかったのだな……。どうし様もない思いを一人で抱え込んで。)
座したままの姿勢で鳳凰は鴉に近付いた。流暢に話す方ではない鴉の声を全て聴く為に。
彼の本質が良く表れた澄んだ目を鴉に向け、次の言葉を待つ。
「……天明。」
「どうした」
それは、遥か遠い記憶の過去の鳳凰に冠されていた言葉。
「単刀直入に言うぞ」
一度、痩せた胸から大きく息を吐き、上方を……屋内からは見えないのだがまるで上空にある彼の城を仰ぎ見るかの如き動作の後、鴉は言った。
「俺は……同族ではあるがお前達よりは奴達に近い。今は黄金城内に封印された奴と……その下のあの者に。」