記憶
宵五つ近く。
鳳凰は一日動き通し、そして鴉は彼にしては非常に稀な事で話し通し。
どちらも腹が減り夕飯を摂る事になった。
とは言っても鴉は干し飯や木の実等の口に出来る物は持っておらず、鳳凰が昼は多忙により食べ損ねた、やや乾いた握り飯三個をならばお前も少しどうだと勧めた。
鴉が無言のまま頷いたので二人分として嵩を増やす為に、中廊下を渡り向かい東端に造られた大きな竈に残っていた宿の者に、この握り飯を解き粥にしてくれと頼み、駄賃を渡す。
本日の仕事を終えて帰宅する予定であったのだろう。その飯炊きの者は一瞬嫌な顔をしたが、鳳凰はそれを意に介さず粥を作らせた。
宿と同じく粗末で古び、脚の一つが傾きかたかたとした膳と、匙を一つずつ借り、鴉と向かい合わせとなり夕飯を摂る。
炊いてから相当の時間が経過した米の、しかも嵩を増やす為に溶いた重湯とも言えるような粥である。
もうもうと湯気を立てるそれをすすりながら、悪くはないと僅かに嬉しそうな表情すら浮かべる鴉を見ながら、鳳凰は不安に駆られていた。
……今迄虚無と狂気に捕われていた男。
それが初めて、その身に抱え切れぬ悩みを抱き、
それを自分に話した事により、気配が人となり、こうして……飯を悪くないと、人の心を戻した。
彼が悩みとする内容は自分と同じ、自らの血と自らの謂れについて。
しかしこの男は他の……自分達他の己と多少、過去の内容が異なっている。
男の過去……遠い記憶。
自分の子供と共に歩いていた事、
心優しき己であったらしい。その子から父と呼ばれていたその時は彼にとって唯一……大切で穏やかな時であった事。
その記憶が……その子供が鴉の心中に二十七年存在し得なかった人の心を呼び起こした。
不安だ、と鳳凰が思う理由はここからである。
次に鴉が話していた記憶の断片。
子はいなくなり鴉は斬られ、だから鴉は自分を斬った男を殺そうとしている。ここだ。
烏丸は鴉、鴉は烏丸……そして。
鳳凰は溜息も吐けなかった。
本当に……鴉が先に言った通りに嫌なオチであると思う。
対峙したナツメが狂人と言い、鳳凰自身も今日会うまでは妙だ妙だと警戒していた男、それが人の心を戻した……こうして戻しつつある。
だがその切っ掛けとなった……天涯孤独で生き続けているのだろう鴉に、温かい心を戻す元となったその人物。
(相手が悪過ぎる。)
……鴉が。自分達が戦鬼でありその者が覇王の下に従い続ける限りは鴉とその者は決して……相容れ、相合う事はない。
匙を置き、食事の止まった鳳凰を少しばかり見て、鴉はまた独り言のように言葉を紡いだ。
……今から話す事は先刻までの話の続きであるのかそうでないのか……続きかもしれぬ。数多の遠い記憶の中のそれこそ本当の断片だ。
その断片の一つ一つでは……俺は斬られて……最早死んでいるのか?
投げ遣りのように、自虐的にも聞こえる口調の後に鴉は続ける。
……その場所にもう、男……俺である男はいない。
……変わらず意識だけはしっかりとそこにあるのだが。
登場し、動き、話す者は大柄の男、そして消えていた我が子。
どちらの表情も相変わらず分からぬ。だが……不思議な者達だ。
……多く見掛ける“遠い記憶”の断片の一つ。
大柄の男はただ、前だけを見ている。そしてさながら王者か……覇者のように力強く、厳しく我が子の名を呼び離れず付いて来る事を命じ、訴える。
子の方は、決して遅れまいと付き従っている。
その眼差しは男と寸分変わらぬ前……先を、そして半分以上はその子の持つ性質が発露したやさしさで男を……まるで案じるように見つめている。
ある記憶の断片では、男が子に何か教えている。
二人は先ずは主と従の繋がり……そうである者達なのだろうが、
気配から知れる、齢も姿形も全く異なるが諭し導く兄とそれをただ敬う弟、掌中の珠を慈しむ大人と若者……何より、……同じ血を持つ同族の。極めて濃く情深い、契りを交わし合った者達……そう言った、色々な風に見えるのだ。
「……父であるだろう俺である男、……俺も、そこへは全く立ち入る事が出来ぬ。」
鳳凰と同じく鴉は膳の端にかたりと匙を置いた。
僅かの間逡巡した後、今からの事はお前が嫌であるならば忘れても良いと前置きをする。
「……あの男。俺を物のように見下ろし塵屑のように足蹴にした大柄の男。……この遠い記憶の断片の一つで」
「俺の子の名を呼んでいる、何度か、繰り返し……繰り返し……。馬鹿のような話であるが、男の子供が母に甘えるように、全く悪意のない悪戯をするように……ただその名の者が自らの傍らにいればそれで良い、そう見て取れる、満ち足りた、穏やかな、……あの悪鬼、諸悪の根源が優し気に、微塵の邪気もない……ただ愛しき愛しき者の名を呼ぶ、まるでそれは……」
「……」
「済まぬな、片方は男か女か分からぬが、もし前者であるとしたらお前はこう言う話を避けたいだろう」
「いや……構わん。続けてくれ。」
「俺も……お前もだ。否、この“大いなる戦い”に巻かれた全ての者は同族、基同じ一つの血。
その中で特に繋がり深く濃き二人の者がいて、彼の者達は主従であり兄と弟のようにも見え、保護する者とその掌中の珠のようにも見える。
しかし最後に俺が見て、今お前に話した“遠い記憶”の断片は紛れもなく……どこまでも、凶明十五年の今となっても互いに思い合う強く愛し合う者達だ。」
「……」
「俺はその片割れのかつて父であった。その者の為によりこうしてお前に話しをし、食事を摂り……人の感覚を戻しつつあるが……」
「……鴉!」
「俺は二人を倒す。……俺が二人を倒す。龍叉より早く、先に……。もしかしたらあの者がその道を俺のために作り、導くかも知れぬ。」
「止めろ……鴉……覇王配下の者と戦うな……」
戦えば今度こそお前は、完全に人の心を彼岸へと捨て去ってしまう。
今は亡き烏丸の躯の側に。
「俺がやらずとも結局、誰か……戦鬼の内の何れかが倒さねばなるまい」
「ならば……無責任ではあるが俺達他の戦鬼に任せろ」
「俺が俺を斬った信長を殺す、その前に必ずあれが立ち塞がる。……言うまでもない、奴を守らんと。だから倒……あれも俺が殺す」
「それは烏丸の念かお前の意志か」
……思わず。耐え切れなくなり鳳凰は叫んだ。
その振り絞るかの如き声を聞き入れたのか、鴉は言葉を封じ、しばらく経った後にぼそりと呟いた。
俺は俺だと。自らの人としての思いより、止まぬ憎悪により俺は動くのだ。
俺はそういう男だと。