緑と傍らの鷹
木枯らしはそよ風に変わり春が来て。
老朽化してはいるが頑強な造りの体育館に笛の音が響く。
休憩、と言う低い男の声と共に、館内に居る大柄な男達の動きが止まった。
糸の切れた操り人形のように力が抜け、板張りの床にそのまま倒れ動かなくなる者、
コートを越え館内の隅に寄りスポーツドリンクを狂ったように摂取する者、
未だ春先であるのに汗が止まず外の水道に駆け込み蛇口から出る水に頭を突っ込む者。
秀徳高校バスケットボール部の練習量は、質・量と共に群を抜いていると名高く、超名門の進学校であるその学業に支障の出ないぎりぎりの範囲と言える程の激しさだった。
そして先程倒れた者、力尽きた者水分を求める者、中には嘔吐する者もいる。彼達は皆一年生だった。
その中で二人残り……何れも負けず劣らずの勝ち気な視線をぎらぎらとさせている新入生達が、居る。
おーい、チビの一年坊、やり過ぎると死ぬぞと言う先輩達の言葉にへらりと笑い応じ、しかし己の意志を曲げず、丁度センターラインの辺りに陣取り広げた両腕の指先にまで神経を張り、鋭い目の少年……高尾は呟く。
「勝負」
「勝負?」
応じた長身の人物……緑間は大きく溜息を吐きながらも、しかし気の強い性質で売られた喧嘩は受けて立つのだよと返したいのだろう。そう言いたげな視線で、数十センチも小さい相手を圧するように見下ろす。
「……馬鹿め。そもそも俺とお前では勝負にもならん。第一俺が……」
続く緑間の言葉を制し、にっこりと高尾は笑う。
「ここから打って“俺の勝ちなのだよ”は無しだからな。」
その言葉に緑間は驚いた。この秀徳高校バスケ部に入部し約一ヶ月。その間に自分は必殺の武器の手の内の一つ……センターラインからの長距離シュートを一度も、部員の誰にも見せていない。
何故お前が知っているのだよと問えば、そのへらへらとしている……まるで冬の日だまりのような、とでも言ってやろう。その暖かな笑みがふっと失せ悲しげなものと変わってしまう。
「何だ」
……やっぱ。……ぼえてないんだ。と聞く事の出来なかった呟きの後、すぐにいつもの軽い掴み所のない表情に戻り、鋭い目が真っ直ぐに緑間を見据えた。
「……やろーぜ、真ちゃん」
「フン」
眼前の高尾は先ずそうは思っていないが、2番(SG)が外角やスリーポイントラインを超えた距離からのシュートだけを自らの武器にしていると考える事は大きな間違いだ。
それだけのシューターだったら緑間は他のキセキや黒子達に愛想を尽かされていただろうし、第一帝光中にはその程度のSGは何人も揃っていた。
フリースローラインを挟み正対する高尾の目は全力で“力”を使っている時のものだった。
このいつも笑っている不可解な男は。
今は無謀な勝負を仕掛け挑む時に見えぬ何か……大きな重荷を背負い続けているような表情で自分を見る。
今もそうだ。
緑間は息を吐く。
……SFとPFとC。このポジションに着く物は殆どが大柄で長身であるから、低く速いPGのドリブルが苦手な者が多い。
眼前のこの馬鹿者は正しくそのタイプで、自分もSGではあるが2メートルに近い長身故に、姿勢を低く保ったままのプレイは不得手だ。
……過去で言うならば青峰や紫原、若しくは黄瀬、
奴等のような言わば体を張ったプレイと言うのは俺の性にも合わんし、良いとは思わんが……
再度息を吐き、高尾よりも随分と勝るリーチの長さを活かしその長身の体でボールを包み込むように近付け、半ば体当たりでボールを奪おうとする高尾から少しでも離れた体勢でドリブルを繰り返す。
……こいつのPGとしての実力は、俺達一年の中では最も高い。
本人に伝えてやると調子付くだろうから言わんが、正直、“目”を含めれば上級生のPG達をも凌駕する。
その相手に対し、勝る腕の長さと
(近付かせん)
緑間が動くと同時に高尾もまた動く。
彼が動こうとする距離、シューティングハンドでボールを持ち込もうとする位置、
やはりそこを計算し尽くし……いや、高尾は分かっているのだ。
瞬時に思い描いたビジョンの位置に躊躇う事なく伸ばされた手が緑間を遮る。
(彼がこうだから馬鹿者と言うこの男を意識ぜずに側に置いている事を彼は知らない)
板張りのコートに強く打ちつけるボールと、止めてやると睨む高尾のDFの間に自分の体を強引に割り込ませる。
キセキの、特に青と紫に輝いていた同輩二名が得意にしていた力押し。
緑間は、それが好きではない。
緑と鷹は一瞬、密着する程の触れ合う間合いに、寄る。
抜かれる、と本能で出した咄嗟のDFの右手の動きは、もう先に読んでいた。
大きな掌で包むようにドリブルを繰り返していたボールを右手に切り替え、そのまま苦手な右へ踏み出し、攻める。
息を呑む高尾の呼吸の音が遠い。
逃げ切る緑間は膝を屈めシュートフォームを取る。
その結果は、いつもと変わらない。
いつの間にか見入られていたらしい。
先輩達と、給水や、吐き気を外の溝にぶちまけ発散したらしい同輩達の数多の視線を感じながらいつものように緑間はリングに背を向けた。
何度やっても勝敗は決まっているのだよ……馬鹿め、と。
いつものように返してやるつもりだった。
しかし、その憎まれ口が出ない。
(……?)
高尾の気配がおかしい。
周囲の同輩達の驚きと熱気とそして嫉妬を多分に孕んだどろどろとした緑間に向けられる視線とは全く異質な、例えるなら前に進む事に惑うようなそう言った表情をしている。
……そんな顔をするな。
お前は間抜け面をしているのだから、せめて笑っていろ。
いつものように心の中と裏腹の皮肉を浴びせてやろうと思う矢先に、高尾が呟いた。
「……すげー……」
やっぱ悔しいわ、と俯きぽそりと言い、
すぐにいつもの捉え所のない笑顔へと戻った。
「俺ちょっと休むわ」
言い終わり背を向け、外に直接繋がる引き戸の出口へと走り去って行く。
部員達の刺すような視線を受けたまま、緑間はただその背を眺め続けていた。
鉛が埋まったような心の重さに反し、外へ外へと駆ける足取りは段々と速くなっていく。
この部に入り約一ヶ月、しかし今日で何度目だろうか。
時を見付けては勝負を挑み、そして結果は、いつも。
“そもそも俺とお前では勝負にもならん”
……言い切る事無えじゃねーか……
必ず、必ずと。
三倍近い差で大敗し、涙すら流せなかった先輩と暗い目のまま会場を去って行ったチームメイト達。
(……ちくしょう)
生涯忘れ得ないだろうあの思いは一年以上の時を経て尚、高尾の心の内に燻り続けている。
“あの日から……”
一人になりたいと自分を責め体育館の裏側へ身を潜めようとすると、目的の場所から複数の男の声が聞こえる。
(大坪先輩、木村先輩……宮地、先輩……)
気配を悟られないようにそっと眺めると、新主将の大坪を囲むように副部長の木村と、宮地が佇んでいる。