囚人と青い鍵 1
5 家、マスターの部屋(カイトside)
「じゃあ、おやすみ。」
寝てしまった。本当はもう少し話したかっけど、仕方がない。無理矢理起こすわけにもいかない。このあと学校があるのに疲れさせるのも申し訳ない。
リビングにいるのも手持ちぶさただから、マスターの眠るベッドに僕も腰掛ける。なんかちょっと問題があるような気がしないでもないけど、そこは無視する方針にした。
やわらかくて暖かいのに、どこか清涼感のある、いい匂いがする。マスターの匂い、なんだろうか。
「ん…」
マスターが寝返りを打つ。さっきまでは背を向けていたようで見えなかったマスターの寝顔が僕の目に映る。
慌ただしくて、マスターの顔すらまともに見ていなかったことに気づいた。
マスター、可愛いです。
艶のある綺麗な黒髪、桜色の頬、長くしっかりしているのに、どこか繊細さの漂うまつげ…
気づくと僕は、眠るマスターの頭を撫でていた。
何やってるんだ僕は!
「…ごめんなさい」
マスターが小さな声で呟く。
え?
「私のせい…」
いやいや、僕が勝手に眺めて、勝手にマスターに触れて…
「みんな、どうして、私だけ、ごめんなさい、行かないで…私が…あの時…」
あ、いや、僕は関係なく…
マスター、悪い夢でも見ているんですか?
「ごめんなさい…ごめんね…みんな…、私が」
時計を見ると、7時27分だった。7時半より早かったが、うなされるマスターを見るのが辛かった。耐えられなかった。
「マスター、マスター?」
「マスターっ!おっはようございまーすっ!!」
僕の不安を隠すように、精一杯のハイテンションで起こす。
「朝ですよー、7時半ですよーっ!起きてくださーいっ!」
マスターは起きてくれない。早くそんな悪い夢、終わってほしいのに。
「マスターマスターマスターマスターっ!」
ようやく、マスターは体を起こした。
「マスターやっと起きたぁっ!」
「なんだよいきなり抱きつくな!」
僕、マスターに抱きついていたんですね。
って、え!?嘘だろ!?
「え、だってマスターが起きたから」
「理由になってない!まず降りろ邪魔だ。ベッドから降りられない。」
「だって、マスターが寝ちゃうと暇でつまんなかったから…」
さすがに、うなされてるマスターが心配で、やっと起きてくれたから、抱きしめたくなって、とは言えなかった。
「お前は犬か!」
「わん」
「鳴けとは言ってない。」
夢、覚えていないのかな。よかった、思い出さないでいてくれれば、それで。
マスターはどこかへ行く支度を始めた。たぶん連れていってはくれないと思うけど。犬と言われたからなのかな、つい彼女の後を追ってしまう。
「ちょっとあっち行っててくれる?着替えたいの。」
「あっ…はいっ!すみません!」
至極当たり前のことだ。別に変なことは考えるつもりもないのに、急に恥ずかしくなってしまった。
ぼーっとしている間に、どうやらかなり時間が経っていたらしい。
「やばっ!カイト、私出かけてくるから、お留守番お願い!誰が来ても家に入れないでよ!あと、リビングと私の部屋以外入らないこと!」
「はい、わかりました!気をつけてくださいね、マスター」
一瞬だったけど、こうして見ると、マスターって寝顔は可愛くて、起きているときは美人というか、綺麗なんだなぁ。
やっぱり、長い黒髪が似合うなぁ。
もしかしたら、ちょっといじってみたらものすごく可愛い反応するのかもしれない。
って、僕は変態か!
リビングとマスターの部屋以外は入るなってことは、マスターの部屋にならいてもいいと言うことだ。
本社以外に知っている場所はマスターの家の玄関と、リビングと、洗面所とバスルームと、マスターの部屋しか知らないけれど、マスターの部屋が一番好きだ。
よくわからないけど、この匂いが落ち着くらしい。
マスターが寝ているときならマスターを眺めることもできたけど、マスターがいないとなると本当に手持ちぶさただ。
メイコやミク、リンレンなら、マスターがいなくても二人でいる分、退屈しないだろう。僕だけ扱いが不憫じゃないか?
もし他のみんなのマスターのところには、プロトタイプのモニターの話は届いていて、僕のマスターのところに届いていないとしたら、それってとんだ試練じゃないか?
まぁ、それはないだろう。
考えても仕方がない。今の僕にわかるのは、これからマスターと暮らしていくということだけだ。
マスターは、僕に歌を教えてくれるのだろうか?
ボーカロイドに対する認識も、「そういったソフトが世の中にはある」といったもので、特に興味を持っているわけでもなさそうだった。
マスターの部屋を見回してみても、楽器らしきもの、楽譜らしきものも見あたらない。見あたらないどころか、やたらと殺風景だ。生活に必要なもの以外、本当に何もない。
これは…?
写真立てが僕の目にとまる。
中央には、浴衣を着た、今よりほんの少しあどけないマスターが、綿飴を食べながら笑っている。隣には、いたずらっぽく笑いながら、金魚の入った袋を戦利品のようにかかげる黒髪の少年。その後ろには、40代後半くらいの男女が穏やかに笑っている。
マスターの、家族?
そういえば、僕が来たとき、玄関にはマスターのもの以外の靴はなかった。おそらく、仕送りとアルバイト等で、一人暮らしで大学に通っているのだろう。
それ以上のことは、考えなかった。
考えなかったというよりも、考えることを拒んだのかもしれない。
そんなことよりも、だ。
たぶんマスターは疲れて帰ってくるだろう。
お風呂のお湯沸かしといたら、喜んでくれるかな?
お湯を溜めるには、ただ「お風呂」ボタンを押せばいいらしい。
ピッ
ーお風呂を沸かします。設定温度は、39℃ですー
声は数世代前のボイスロイド、だろうか。
お湯を沸かしている間に、マスターの部屋のベッドを整え、干してあるバスタオルを畳む。
これじゃ、ボーカロイドじゃなくて主夫(主婦?)ロイドじゃないか?
マスター、早く帰ってこないかな。