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糸魚川 翡翠
糸魚川 翡翠
novelistID. 57856
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囚人と青い鍵 1

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8 無力な僕の役目(カイトside)


マスター、泣いてた。

ドアの向こうから、微かに声が聞こえたような気がした。

いや、声はしていないのかもしれないけれど、感じた。

マスターは泣いてる。

ドアの鍵をかけられ、隔てられ、どうにかしたいのに、何一つ出来やしない。

僕は無力だ。


さっきマスターは、僕のことを"琥珀"と呼んだ。
「姉弟じゃないみたい」と言った。

あの写真の少年のことだろうか?

「こんなにそっくりなのに」

もう、彼は存在していないのか?

「リビングと私の部屋以外入らないこと!」

他の部屋がある…

あれだけの量のアイスが入る冷凍庫、普通一人暮らしでは買わないはずだ。

僕が横になっても少し余裕のあるあのソファー。

つまりこの家は…

独りで暮らすには余りに広すぎるこの家は…

そして玄関の靴がたった一人分しかないのは…

視界が滲む。マフラーが、滴を吸う。
生暖かい何かが伝う。どうして?マスターの方がずっと苦しいはずなのに?

あの小さな体で、僕にはわからない何人分もの苦しみを背負っているのに。

どうして僕が泣いているの?僕は機械なのに。
たった1日、それも、ほんの少しの時間一緒にいただけなのに、どうしてこんなに救いたいって思うんだろう?守りたいって思うんだろう?

多分、僕のマスター、だからかな。
ボーカロイドがマスターに逆らったら、マスターへ反逆心を持ったら、それは商品として成り立たない。きっと、製品の特性上、マスターへの忠心はそなわっているものなのだろう。きっとPCソフトだった、V1から今までのも、そうだったに違いない。

そして僕は…

どうしたらマスターを救える?


部屋のドアが開く。

「マスター!?」
もしかしたらずっと開けてくれないかもしれないと思っていた。

「買い物行ってくる」
「ちょ、待ってくださいマスター!」

玄関まで追いかける。

サングラスをかけ、フードを被り出かけようとするマスターのまわりには、一緒にアイスを食べたときとは全く違う、突き刺すような暗い何かが漂っていた。

「マスターって言わないで。」

そう言い放ち、乱暴にドアを開け、マスターは出ていった。


帰ってこなかったらどうしよう?

また、僕には立ち尽くす以外何もできなかった。

でも、一つだけわかったことがある。
僕が僕じゃなくて、マスターの弟である"琥珀"として振る舞うこと。

そうしたら、マスターを救えるのかもしれない。
少なくとも、苦しみを軽くできるのかもしれない。



マスターは思いの外早く帰ってきた。本当に買い物だけだったらしい。

「ただいま。」

"琥珀"なら、どんな風に言うのだろうか。

「何ぼさっとしてんの。」

「マス…ねーちゃん、おかえり。」

マスターの表情が険しくなった。気に入らなかったのだろうか。

「髪、染めるよ。」
「え?」
「その青い頭、黒に染めるから。」
「え?…えぇっ!?」
もしかして、僕を本当に"琥珀"にするつもりなのか!?

「早く。」

それが、マスターの願いだというのなら。

「わかった。」
「これ、あんたの服。」

これも"琥珀"が着ていたのだろう。サイズも、わりと近いみたいだ。

「うん。」

マスターはまだ、虚ろな瞳をしていた。

「じゃあ、始めるから。」

説明書を見ながら淡々と僕の髪を操るマスター。
全体的にどうなっているかはわからないが、前髪が見慣れない色をしているのだけはわかった。

「これ、つけて。」

カラーコンタクトというやつだろうか。

「早く。」

マスターに言われるがまま、箱を開け、レンズを装着した。

僕の前に立ったマスターは、初めて見る、笑顔だった。

「おかえり。"琥珀"。遅いよ、馬鹿。」

僕は、いや"琥珀"は、マスターに、いや、翡翠に抱きしめられていた。

「俺も、会いたかった。ねーちゃん、遅くなってごめん」

マスターの目に映るのが、たとえ僕じゃなかったとしても…

マスターがそれで救われるのならば…

「琥珀、もう遅い時間だから、早く寝な。私も明日大学だから。おやすみ。」

「おやすみ、ねーちゃん。」

マスターはマスターの部屋へと、僕は"琥珀"の部屋へと向かった。

淀んだ空気と、微かな埃のにおいのする部屋だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「琥珀!起きて!朝ご飯できてるから!」

マスターのいつになく明るい声が、僕の寝ている部屋へ響く。

「もー!開けるよ?」
「ちょ、待ち。今行くから。」
「じゃあ、先リビング行ってるよー」
「はーい」

ごく普通の、姉弟だったんだろう。昨日渡されたジャージ姿のまま、リビングへと降りる。

トーストを運んできたマスターが僕を見る。

「おはよう、こは……嘘でしょ?」

愕然とした顔で僕を見る。皿を落とさなかったのが不思議なくらいだ。

「なんで…戻ってるの?」

"琥珀"が戻ってきていることが気に入らないのだろうか?

「どうしたの、ねーちゃん。俺、なんかついてる?」

「違う。違う違う違う違う違う!」

取り乱し、くずおれるマスターを支えに駆けだしたとき、僕の視界を見慣れた青い前髪が流れるのに気づいた。

髪の毛の色は、戻るのか。

気を失ったマスターを、マスターのベッドへと運ぶ。

せめて、というのだろうか。僕ではなく、"琥珀"のためだけれど、マスターの作ってくれた朝ご飯を口にした。

美味しかった。多分、僕が昨日作ったものとは比べものにならないのだろう。


マスターは僕の中に"琥珀"を見ていて、でも僕にはマスターのための"琥珀"になることはできなくて…

僕はどうすればいいんだろう。

みんなは元気にやっているかな。マスターともうまくやっているかな。

皿を洗っていても、何していても、いろんなことを考えてしまう。思考をかき消すために歌いたくても、せいぜいデモソングしか入ってない。それに今歌ったら、倒れているマスターに迷惑だ。

昨日の朝のように、マスターの眠るベッドに腰掛ける。だけど、今はマスターの顔を見るのが辛い。

それでも、そばにいないのはもっと辛い。

めーちゃんやミク、リンレンに対しては、大切な姉妹、弟ではあるけれど、こんなにも、せめてそばにいたいと思ったことはなかった。それは、彼らがマスターのような苦しみを抱えた状態ではなかったから?マスターみたいに独りじゃなかったから?マスターが僕のマスターだから?

それとも…?

でも、だけど、マスター。
僕は僕ですが、"琥珀"にはなれなさそうですが、僕は僕として、もう少し、あなたのそばにいさせてください。

マスターの眠るベッドで、背中合わせに僕も横になった。

マスター、暖かい…

作品名:囚人と青い鍵 1 作家名:糸魚川 翡翠