囚人と青い鍵 1
8 無力な僕の役目(カイトside)
マスター、泣いてた。
ドアの向こうから、微かに声が聞こえたような気がした。
いや、声はしていないのかもしれないけれど、感じた。
マスターは泣いてる。
ドアの鍵をかけられ、隔てられ、どうにかしたいのに、何一つ出来やしない。
僕は無力だ。
さっきマスターは、僕のことを"琥珀"と呼んだ。
「姉弟じゃないみたい」と言った。
あの写真の少年のことだろうか?
「こんなにそっくりなのに」
もう、彼は存在していないのか?
「リビングと私の部屋以外入らないこと!」
他の部屋がある…
あれだけの量のアイスが入る冷凍庫、普通一人暮らしでは買わないはずだ。
僕が横になっても少し余裕のあるあのソファー。
つまりこの家は…
独りで暮らすには余りに広すぎるこの家は…
そして玄関の靴がたった一人分しかないのは…
視界が滲む。マフラーが、滴を吸う。
生暖かい何かが伝う。どうして?マスターの方がずっと苦しいはずなのに?
あの小さな体で、僕にはわからない何人分もの苦しみを背負っているのに。
どうして僕が泣いているの?僕は機械なのに。
たった1日、それも、ほんの少しの時間一緒にいただけなのに、どうしてこんなに救いたいって思うんだろう?守りたいって思うんだろう?
多分、僕のマスター、だからかな。
ボーカロイドがマスターに逆らったら、マスターへ反逆心を持ったら、それは商品として成り立たない。きっと、製品の特性上、マスターへの忠心はそなわっているものなのだろう。きっとPCソフトだった、V1から今までのも、そうだったに違いない。
そして僕は…
どうしたらマスターを救える?
部屋のドアが開く。
「マスター!?」
もしかしたらずっと開けてくれないかもしれないと思っていた。
「買い物行ってくる」
「ちょ、待ってくださいマスター!」
玄関まで追いかける。
サングラスをかけ、フードを被り出かけようとするマスターのまわりには、一緒にアイスを食べたときとは全く違う、突き刺すような暗い何かが漂っていた。
「マスターって言わないで。」
そう言い放ち、乱暴にドアを開け、マスターは出ていった。
帰ってこなかったらどうしよう?
また、僕には立ち尽くす以外何もできなかった。
でも、一つだけわかったことがある。
僕が僕じゃなくて、マスターの弟である"琥珀"として振る舞うこと。
そうしたら、マスターを救えるのかもしれない。
少なくとも、苦しみを軽くできるのかもしれない。
マスターは思いの外早く帰ってきた。本当に買い物だけだったらしい。
「ただいま。」
"琥珀"なら、どんな風に言うのだろうか。
「何ぼさっとしてんの。」
「マス…ねーちゃん、おかえり。」
マスターの表情が険しくなった。気に入らなかったのだろうか。
「髪、染めるよ。」
「え?」
「その青い頭、黒に染めるから。」
「え?…えぇっ!?」
もしかして、僕を本当に"琥珀"にするつもりなのか!?
「早く。」
それが、マスターの願いだというのなら。
「わかった。」
「これ、あんたの服。」
これも"琥珀"が着ていたのだろう。サイズも、わりと近いみたいだ。
「うん。」
マスターはまだ、虚ろな瞳をしていた。
「じゃあ、始めるから。」
説明書を見ながら淡々と僕の髪を操るマスター。
全体的にどうなっているかはわからないが、前髪が見慣れない色をしているのだけはわかった。
「これ、つけて。」
カラーコンタクトというやつだろうか。
「早く。」
マスターに言われるがまま、箱を開け、レンズを装着した。
僕の前に立ったマスターは、初めて見る、笑顔だった。
「おかえり。"琥珀"。遅いよ、馬鹿。」
僕は、いや"琥珀"は、マスターに、いや、翡翠に抱きしめられていた。
「俺も、会いたかった。ねーちゃん、遅くなってごめん」
マスターの目に映るのが、たとえ僕じゃなかったとしても…
マスターがそれで救われるのならば…
「琥珀、もう遅い時間だから、早く寝な。私も明日大学だから。おやすみ。」
「おやすみ、ねーちゃん。」
マスターはマスターの部屋へと、僕は"琥珀"の部屋へと向かった。
淀んだ空気と、微かな埃のにおいのする部屋だった。
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「琥珀!起きて!朝ご飯できてるから!」
マスターのいつになく明るい声が、僕の寝ている部屋へ響く。
「もー!開けるよ?」
「ちょ、待ち。今行くから。」
「じゃあ、先リビング行ってるよー」
「はーい」
ごく普通の、姉弟だったんだろう。昨日渡されたジャージ姿のまま、リビングへと降りる。
トーストを運んできたマスターが僕を見る。
「おはよう、こは……嘘でしょ?」
愕然とした顔で僕を見る。皿を落とさなかったのが不思議なくらいだ。
「なんで…戻ってるの?」
"琥珀"が戻ってきていることが気に入らないのだろうか?
「どうしたの、ねーちゃん。俺、なんかついてる?」
「違う。違う違う違う違う違う!」
取り乱し、くずおれるマスターを支えに駆けだしたとき、僕の視界を見慣れた青い前髪が流れるのに気づいた。
髪の毛の色は、戻るのか。
気を失ったマスターを、マスターのベッドへと運ぶ。
せめて、というのだろうか。僕ではなく、"琥珀"のためだけれど、マスターの作ってくれた朝ご飯を口にした。
美味しかった。多分、僕が昨日作ったものとは比べものにならないのだろう。
マスターは僕の中に"琥珀"を見ていて、でも僕にはマスターのための"琥珀"になることはできなくて…
僕はどうすればいいんだろう。
みんなは元気にやっているかな。マスターともうまくやっているかな。
皿を洗っていても、何していても、いろんなことを考えてしまう。思考をかき消すために歌いたくても、せいぜいデモソングしか入ってない。それに今歌ったら、倒れているマスターに迷惑だ。
昨日の朝のように、マスターの眠るベッドに腰掛ける。だけど、今はマスターの顔を見るのが辛い。
それでも、そばにいないのはもっと辛い。
めーちゃんやミク、リンレンに対しては、大切な姉妹、弟ではあるけれど、こんなにも、せめてそばにいたいと思ったことはなかった。それは、彼らがマスターのような苦しみを抱えた状態ではなかったから?マスターみたいに独りじゃなかったから?マスターが僕のマスターだから?
それとも…?
でも、だけど、マスター。
僕は僕ですが、"琥珀"にはなれなさそうですが、僕は僕として、もう少し、あなたのそばにいさせてください。
マスターの眠るベッドで、背中合わせに僕も横になった。
マスター、暖かい…