【青エク】幻影の街角
身体を押し付けるようにして、間近から柔造の顔を見上げる。
「まむし……?」
戸惑ったような声に、蝮は思わず身体に手を回して抱き付いていた。
「な……、なしたんや」
「なに慌てとる」
つつ、と胸に手を滑らせて、シャツのボタンをぷつん、と一つ外した。腰から背中に反対の手をそろりと這わせる。大仰なほどに柔造の幻の喉が鳴った。さっきまでは彼が主導権を持っていた。その全てに蝮は翻弄されていた。だが、今は違う。蝮は今なら何でもできる気がしていた。普段は絶対出来ないはずのことでも。
シャツに手を掛けると、かかっていたボタンを一気に引きちぎった。
「うわぁっ!? 蝮? なにすんねや……」
「黙り」
下に着ていたTシャツをズボンから引きずり出して、脇腹をじかに撫でる。びくりと柔造の身体が震えた。その反応を見て、自分の中にあるとは思わなかった嗜虐心が掻き立てられる。
「まむし?」
蝮の勢いに押されたのか、柔造がよろりと後ずさる。出張所への飛び石の一つに踵が引っかかったらしい。ぐらりと揺れた身体を、蝮はこれ幸いと軽く突き飛ばす。簡単に柔造の身体が地面に尻もちをついた。
「クラァッ! なんのつもりや……」
言葉が終わらない内に柔造にのしかかった。
「あの……、まむしさん……?」
目ぇ座っとる、と小さな声で柔造が怖々と呟く。いつもは偉そうな態度が随分と可愛らしいことだ。
「まむし……、おい。なぁ、て。コラ、聞いとるんか、ヘビ女。なぁ、て」
怖々と肩を揺する手にも構わず、シャツを捲った。
「蝮て」
「ぴぃぴぃ泣いてエライ可愛らしやないか。可愛がったるから黙っとき」
自分の言葉とも思えない言葉がするりと出た。やはりここは幻なのだ。それが証拠に、本当なら絶対に力では敵わないはずの柔造の手を抑え込むことも出来てしまう。
「判った! 判ったて。判ったから待て」
はぁ、と大きな溜め息を一つ吐くと、蝮の肩を押し返した。
「往生際の悪い男やな」
かぷ、と首筋に噛みつく。ほんの少し汗の味がする。ぐるぐる歩いた、と言うような話をしていたか。ふと思い出しかけた会話だったが、すぐにくすぐったがって逃げようとする目の前の身体に没頭する。
「外は嫌や」
「誰もおれへんやろ」
外か場所とか、どうでも良かった。
「うるさいわ。エエから、どっか行こうや」
な、と抑えていたはずの手を簡単に外して、柔造が頬をするりと撫でた。蝮は自分から大きな手を取ると、引っ張って歩き出す。
「蝮?」
不思議そうに呼びかけるが、蝮に引かれるままに歩き出す。出張所のはずの門を出て、適当に道を歩き出す。
自分の家でもなく、志摩の家でもなく。出張所などではなく。誰にも邪魔されたくない。早く、と思うのに人目のない場所を、驚くほどの冷静さで考えていた。
「蝮? おい」
呼びかける柔造の手を引っ張って、黙ったままずんずんと見知らぬ街を歩いていく。歩いているはずなのに、飛ぶように景色が後ろへ去っていく。
「蝮。なぁ、蝮て」
「黙りよし。アンタは大人しう着いてきたらエエんや」
何度も呼びかける柔造を黙らせる。余計なことを喋ったら、この場で足が止まってしまう。早く。
「せやかて蝮、どこへ行くんや」
それを考えている最中なのだ。
「どこかてエエやろ」
ああ、でもどこに行けばいい? 随分昔に任務で使った町屋はどうだろうか。まだ空き家だろうか。いや、あそこはもう使えないと言っていた。ならいっそ金剛深山にでも……。
「蝮」
柔造の言葉に、パパー! とけたたましい音が重なった。
「だから黙って……」
はて、何の音だっただろう? と心の中で首を捻った蝮の耳に、じーわ、じーわ、と蝉の声が飛び込んでくる。前方の塀の内から、三味線の音が漏れ聞こえた。にゃぁん、と猫の声が聞こえたような気がする。途端に違和感を覚えた。
この音は……。
「そやかて、俺ら元に戻ったみたいやで」
その言葉に蝮は弾かれたように辺りを見回した。
家々を挟んだ遠くの通りから聞こえてくる車の行きかう音。家の中から生活音が漏れ聞こえる。空を見上げれば夏の強い日差しと、真っ青な空があった。
よろり、と足が縺れる。
おっと、と柔造がよろめいた蝮の身体を支えた。その熱に、自分がしでかしたことの数々がどっと蘇る。
私……。私……!
「蝮? 大丈夫か?」
「帰る!」
蝮を支える腕を振り切って、スタスタと足早に歩き出す。恥ずかしくて顔も見られない。後ろから、柔造が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。だが、振り返らなかった。
私……。何しようとしてたんや……。
力一杯握りしめていた手の感触が、まだ手に残っている。触れていた感触が、少し汗をかいていた脇腹の感触も引きずり出してくる。
「あれは……幻やったんやろか……」
掌を見つめて呟く。力を入れていた痺れと触れていたところが少し汗をかいて赤くなっていた。触れた肌が生々しく蘇る。がっしりとした力強い掌だった。張り詰めたような腹だった。そう思い返せば、自分が口にした疑問の正解を知っているぞと心が訴えてくる。だが、はっきり言葉として認識したくなかった。
何故なら……。
現実に戻ったからだ。現実ではあんなこと出来ようはずもない。
手に残る感触をそのまま残しておくように、そっと反対の手で包み込む。
たとえ幻でも、悪魔でも良い。柔造に触れたのだけは間違いない。この手に残った熱と感触だけは間違いない。いっそ身体に刻み込んで残せれば良いのに。
あれは幻だ。けれど。だからこそ。この身体にだけ残って欲しかった。
その後、何度か似たような猫を見かけた。ふとあの不思議な街へ行けるだろうか、と猫の後を追いかけたこともある。だが、二度と出会うことはなかった。あの音のない、不思議な明るさの街を思い出すと、背中がぞくりとする。だが、ここでは決して出せない想いを行動に移すことが出来た。行きたいような行けないような、行けなくて安心したような、ちょっとだけ残念なような気持ちになる。
「で?」
少年の声に物思いから覚める。
「え?」
自分を見上げてくる三人の中学生達の顔。明陀宗の子供たちであり、蝮にとっても血は繋がらなくとも弟のような存在だ。
勝呂竜士は少し困惑したような、それでいて蝮を気遣うような顔をしている。座主血統に生れたと言うことだけではない。この少年が元来持つ優しさなのだろう。三輪子猫丸はすっかり蒼褪めてしまっている。正十字騎士團と言う祓魔集団に属する前から、明陀宗は祓魔を生業にしてきた宗派だ。そんな怖がりでこの先、任務が務まるのか甚だ不安だ。志摩廉造は好奇心と、そして訳知り顔でニヤニヤしている。兄である柔造から何か聞いたのだろうか。何事につけても怠惰な癖に、女の子に対しては驚くほどの執着心を見せる。彼もこの先明陀を担い、座主血統の息子を守る役目が果たせるのかと、不安になる。
「で? 柔兄と出張所みたいなところで会うて、なしたん?」
蝮の戸惑いなど知らぬげに質問してくる。
「そこからは……」
作品名:【青エク】幻影の街角 作家名:せんり