Rain stops
「お前がいなくて不安なようだったぞ」
「え? ほんとに?」
「主がいないのは、心許ないのだろう」
「そっか。悪い事しちゃったな」
アーチャーの側にしゃがんで、陸は猫又の頭を指で撫でる。
「夕飯を作らねばならない、陸、代われ」
「りょーかい」
そっと丸くなった式神を陸は受け取った。
次の加茂家への訪問日、陸はまた素戔嗚神社にいる。
「ここもか……」
少し遠くまで足を延ばしてみた素戔嗚神社も、やっぱり主が居ないと嘆いていた。知らず、俯いてしまう。
「どこに行っちゃったんだ、素戔嗚尊は?」
士郎の痕跡を探したいのに、陸は素戔嗚尊を探している気分になってしまう。あまりにも社の訴える声が悲痛だからだ。
「主がいない……か……」
アーチャーも衛宮士郎という主を失った。陸と契約を交わしたが、アーチャーの主は士郎だけなのだと陸にはわかっている。
式神が不安そうだったと、アーチャーは言っていた。
(わかるんだな、きっとアーチャーには……)
主のいない不安をアーチャーはずっと味わっている。そんなアーチャーを、陸はどうにかしてやりたい。
「士郎……、なんでもいいから、おれに教えてよ!」
ほんの欠片でいい、手掛かりになるものが欲しい。
今のところ、手掛かりは素戔嗚尊。神社自体には何もない。だとすれば、と陸は顔を上げる。
「場所じゃなくて、素戔嗚尊を追ってみた方がいいのかな……」
いよいよ、本格的に記紀と向き合う日が来てしまったと、陸はため息をつく。
「漢文、苦手なんだよなー……」
今まで、どこかで敬遠していた書物。だが仕方がない。もう、そこにしか手掛かりがないのだ。
衛宮邸に戻ったらすぐにはじめる決心をして、陸は家路についた。
***
居間の定位置。
部屋の前の縁側。
血を飲み込んだ庭土。
その庭の向こうに見える、修理工場の閉じられたままのシャッター。
この家は、士郎の面影に溢れている。
オレは何一つ忘れていない。
『忘れていいんだからな』
涙を呑みながら言った優しい声さえ、今も耳に残っている。
目を閉じ、耳を塞ぐと、たくさんの思い出とともに、士郎の声がよみがえる。
(士郎の温もりも、オレを眠らせてくれた安心感も……)
新たに契約した陸からの魔力は申し分なく、食事も睡眠もオレには必要ない。
士郎の魔力が足りないわけではないのに、オレは士郎がいた時は必要がなくても、共に食べ、共に眠った。士郎がそうしたいと思っていたから、そう願ったから……。
いや、睡眠は違う。
眠る必要のないオレが士郎の腕の中では、確かに眠っていた。優しい温もりが士郎から伝わり、オレは全てを預け、意識すら自ら手放していた。温かい結界の中で、士郎に包まれるようにして、オレは眠った。
眠ることがなくなって六年。士郎が消えて六年が経つ。
この日があの朝のように澄んだ青空であったなら、オレはもしかすると泣いていたかもしれない。深い後悔と、士郎への恋慕に耐えきれずに……。
不思議とこの日は雨だ。毎年、毎年、士郎のいなくなった次の年から、いつも、この日は……。
そして、オレは雨の降る庭をただ見つめている。そこにあった日々を幻に見ながら、オレは士郎との日々を、些細なことで笑い合った、幸福だった時間を、ただ見つめている。
夜は長い。いや、昼も長い。日々を、日常を積み上げていくことが、これほどに難しいことだとは思わなかった。士郎がいた時は、限りある大切な日々を一つ一つ積み上げていくことにしがみついていたのに……。
「し……」
口が勝手に動いて、その名がこぼれそうになった。グッと歯を喰いしばり、堪える。
剣の丘に戻れば忘れられるだろう、と、士郎は言った。辛くなったら、契約を解除していいと。
(忘れたくない……、忘れたいわけじゃない! ただ、士郎がいないこの現実が、オレには守護者であることよりも苦しい……)
これほどに想っていても、記憶を失くすのだろうか? 記録となり下がったオレの経験には、士郎は残らないのだろうか?
「アーチャー、苦しい?」
縁側で雨の庭を見つめるオレに陸が訊く。いつからいたのか、オレを見上げている。
気配にも気づかなかったオレは、相当ぼんやりしていたようだ。
「いや……。陸がいるからな、大丈夫だ」
そんなオレに陸は、何か迷いながら口を開いた。
「アーチャー、もう少しだけ、待ってて。おれが必ず……」
その先の言葉は陸の口からは出てこなかったが、必死に何かを伝えようとしているのはわかった。
「お前を一人前にするのが私の使命だ。陸、お前は何も心配することはない」
オレを見上げる陸の心配そうな表情に苦笑してしまう。
(オレがしっかりしなければならないというのに……)
あのさ、と陸は唇を引き結んで、
「すぐに、おれ、一人前になるよ」
と頼もしい笑顔を見せる。
「楽しみにしている」
オレも少し笑うことができた。
「それにしてもさぁ、また雨だねー」
陸が通学カバンを肩から下ろしながら言う。
「そうだな。……そういえば、今日はえらく早いな」
部活動でいつもは日が暮れるころでないと陸は帰宅しない。
「今日はいいんだって。部活よりも大事なことだし」
自分で言って、照れくさくなったのか、少しムッとした陸の頭をポンポンと軽く叩く。
中学生になって、ずいぶん背が伸びてきた。聖杯戦争のころの士郎とあまり変わらない気がする。
(高校生の士郎は、小さかったからな……)
少し笑いがこみあげた。
「なに、どしたの?」
「いやなに、小さかったなと、思ってな」
「ん? 士郎?」
「高校生だったが、今の陸と大差ない」
「うそ……」
驚いて、陸は目を丸くする。
「お前の方が、魔力も身長も、上回っている」
「へぇー」
少し嬉しそうに、照れながら笑う陸を促し、居間へと入った。
「あのさ、アーチャー。おれ、そろそろテスト受けるよ」
「テスト?」
「うん。陰陽師の認定試験」
「何も知識を得ていないのではないか? 魔術は私が教えたが、陰陽の術は……」
「士郎が残してたんだ」
「残していた?」
「士郎の部屋の押入れに、文献とか全部、一括りにしてあった」
驚いて陸を見つめる。
「士郎が全部解析してるんだ。たぶん、自分で試したんだと思う。魔術とそう変わらない気がする、基本的にはね。後は応用だけど、その辺はアーチャーに教わってるし、自信はあるよ」
黒と琥珀の双眸は、その口ぶり通り自信に満ちている。
潜在的な能力の高さに加え、オレが教えた魔術の応用、そして、やや反則技の忌神憑き体質。
「そうか、陸がそう言うのなら、間違いないな」
へへ、とうれしそうに笑った陸に、士郎の笑顔が少し重なって、左胸の刻印が疼いた。
その年の夏、陸は夏休みを利用して加茂家にひと月ほど滞在し、陰陽師の認定試験を受け、申し分なく見事合格。
合格は、合格だったのだが、年齢が達していないため、正式な認定は一年後になるのだと、陸は帰宅早々愚痴をこぼした。
「十五から大人って、お堅いよなぁ」
不貞腐れる陸に、苦笑する。
作品名:Rain stops 作家名:さやけ