Rain stops
「中身はまだまだ子供だと思われているのだろう。仮だとしても試験には受かっている。後は歳が追いつくのを待てばいい」
陸の夕飯を配膳し、その脇にフルーツタルトを置いた。
「な、なに? どしたの、これ?」
「合格祝いだ。果物の籠盛りをいただいたのでな」
「あー、そっか、お盆だったし、法事が続いたんだね、藤村さんとこ」
「相変わらず、察しがいいな、陸は」
陸はもともと勘がいい。聞きわけもよく、人の機微にもよく気がつく。
その機転の利くさまが、子供と思わせないところもあり、感心することもしばしばだ。
「アーチャーって、ほんと、なんでも作れるんだなー」
陸が明るく笑う。その声だけで、衛宮邸の居間は賑やかになる。
そういう感じになると、飛び出してくるのが、陸の式神たちだ。主の華やぐ気持ちにいてもたってもいられず、囃し立ててしまうのだろう。
「陸、少々、騒々しいが……」
苦笑交じりに言うと、
「ご、ごめん」
と陸は式神たちを窘めている。
陸が式神を使えるようになったのは、三年ほど前になる。式神という使い魔の概念すら理解していない陸が、突然、オレに見せた。
一時期は、数体の式神と、陸の憑きもの――内にいる忌神と遊んでいたり、相談事をしていたり、学校の友達付き合いはどうなっているのかと、心配になるほどだった。
その上、陸が内にいる忌神を“イザナミ”と呼んでいるのだから、なおさらだ。
(それは、いわゆる……)
額を押さえながら半信半疑で考え込んでしまった。
イザナミとは、日本神話の一対の夫婦神の一柱だ。
(そんな神が陸の中に?)
確かに士郎は、黄泉の女神と言っていた。ならば、本物なのだろう……、まったく、荒神を憑けた士郎にしても、陸にしても、少々、常軌を逸している。
天涯孤独で厄介な憑きもの持ちの陸の悪い癖は、この式神たちと戯れることくらいで、他はすこぶる問題がない。まだ子供だが対人的な不安もなく、学校での生活態度も良好。先生からも太鼓判を押されるほど。
オレには少し、そつがなさすぎる、と思えなくもなかった。
隔離生活を送っていた幼児期、士郎の喪失、忌神の影響、どれをとってもマイナスにしかならないと思うのだが、それを表に出さないのは、やはり無理をしているのではないのか。
一度、じっくり話をしてみようと、小学校を卒業するころ、陸に訊いたことがある。
だが、そういうことではなかった。
「士郎が笑ってくれると思うんだ。おれが、ちゃんとしていたら」
そう屈託のない笑顔で言った陸は、オレよりも立派だ。親でもなく、人でもないオレとの生活で、どんなにか歪んでしまうだろうと思っていたが、陸は葦のように真っ直ぐなのだ。オレが救われるほどに……。
士郎に感謝しなければならない、新たな太陽のような陸を、オレに託してくれたことを。
高校生となった陸は、背も伸びて、高校時代の士郎よりも上背がある。十五の夏に正式な陰陽師として認定された陸は、高校生と陰陽師の二足の草鞋で忙しく日々を送る。もちろん陰陽師としての仕事の時は、オレも使い魔としての本領を発揮する。
“世界”も、ときおりやってくる。だが、陸の手を煩わすこともない。式神にさえ追いやられていく“世界”は、その威力が弱まっている。霊長の守護という概念自体が揺らいでいると思われる。
(士郎、お前の言った通りだ)
あの時、士郎が強引に契約しなかったら、オレはどうなっていただろうか?
(オレは士郎に救われてばかりだな……。何もかも……、オレの身も心も……、すべて……)
春霞の夜空を見上げる。
「桜が散り始めている、あの日からもう、八年になるな……」
縁側から庭に出た。その場に立つ、士郎が消えた土の上に。
冷たかった風が少し温かくなったような気がして、士郎の温もりを思い出す。身体が覚えている、士郎の熱を、その声の甘さを……。
堪えきれなくて夜空を見上げる。細い月が昇りはじめていた。
(月が昇り、沈んで……、欠けて、満ちて……、オレは繰り返すのか……。こうやって、お前のいない現実を……)
片腕を目に載せる。夜空を見ても思い出す、太陽の輝く空など見れば、なおさらだ。
ならば、もう、見たくない。士郎を思い出す全てを……。
「それでも、オレは忘れたくない……」
腕を退けると、輝きの薄い星が見える。
『周りを染めるような強い輝きじゃなくても、お前の輝きの強さを見たんだ』
士郎の声が今も聞こえる。オレの記憶に残る士郎の声は、はっきりと、焼き付けられたように残っている。
オレの輝きは優しさだと言って、オレの頭を撫でて、オレを甘やかして……。
「こんなにもオレを縛りつけて、お前は、ずるいな……」
苦笑いが浮かぶ。とり憑かれたようにオレの全ては士郎でいっぱいだった。
八度目のこの日も雨だ。昨夕、真っ赤に染まっていた空を見て、今日は晴れるものだと思っていたのだが……。
「もうさ、士郎の呪いだよね」
呆れたように、陸は言う。
「そうだな」
小さく笑って言いながら、少し違う、と心で呟く。この雨は、オレが泣かずにすむように、士郎がわざわざ降らせているように思える。
(士郎は、優しかったからな……、自分のことなどおかまいなしで……)
その優しさが、今も胸に痛い。結局、最後まで自分自身を思い遣れないままで、士郎は消えてしまった。
雨の庭は賑やかだ。あの朝、澄んだ青空の下、士郎の立っていた庭は静かだった。
まるで一枚の絵のような、張り詰めた空気の中で、士郎は笑っていた。
美しい朝の中に佇む士郎は、オレに笑顔だけを残した。
「アーチャー、おれ、一人前になったかな?」
不意に陸が訊いてくる。
「まだまだガキだが、陰陽師としては一人前になったな」
陸はうれしそうに笑った。
「アーチャーに認められたんなら、もう、大丈夫だよなー」
「油断は禁物だぞ」
「はーい」
間延びした返事をする陸と台所へ向かい、夕食の準備を始めた。
***
「素戔嗚尊って、ずいぶん、めちゃくちゃなことしてるんだなぁ……、あ、だから、荒ぶる神?」
記紀の神話を読んでみても、これという決定打にありつけず、陸は首を捻るばかりだ。
原文では、やはり時間がかかるので、古本屋で現代語訳の文庫版を調達していた。
何度、読み返しても謎だらけで、疑問ばかりが浮かんでしまう。
どだい素人が何を以て結論を出せるのか、歴史学者でもない一介の高校生が、と陸は半ば自棄になりつつある。
「えーっと、一書に曰く……、また一書かよ、どんだけ、あるんだって!」
八つ当たり気味に、日本書紀神代条の定番、“一書に曰く”という異説を併記した部分に目を向ける。
“伊弉冉尊を――熊野に葬り……”という一文に目が留まった。
「熊野……」
やけに熊野という地名に引かれるものがある。
「ねえ、イザナミってさあ、素戔嗚尊の……」
内なるものに訊こうとして、口を閉ざした。
「や、なんでもない」
これは、自分がやるべきことだ、と、陸は思った。ここで内なるものにヒントなどもらったら、掴みかけた士郎の痕跡を失ってしまいそうな気がした。
(これは、おれがやらなきゃなんない。士郎を探すのはおれの役目だ)
作品名:Rain stops 作家名:さやけ