Rain stops
気持ちを切り替えて再び考察する。
熊野について詳しくは知らないが、熊野詣なるものは平安時代からある、と陸はうろ覚えの授業内容を思い出す。
(熊野っていう土地柄は、何か……、特別な感じがするな……)
ただの直感だが、そんな気がしてならない。
伊弉諾尊の子である、天照大神と月夜見尊と素戔嗚尊は、三貴子と呼ばれる、と記紀に記されている。
「天照大神は伊勢内宮だ。月夜見尊は別宮しかないけど、たぶん伊勢外宮、じゃあ、素戔嗚尊は? 三貴子なんて名付けて、同じランクの神って位置づけなのに、素戔嗚尊だけ大きな社がない……。母親の伊弉冉尊に会いたいって、泣いてばかりいた……。伊弉冉尊は熊野に葬られて、素戔嗚尊も熊野へって……」
腕を組み、んー、と唸って考え込む。
そんな単純に考えていいのだろうか、いや、そんなわけがないだろう、と陸は自問自答を繰り返す。
「でも、おかしくはないかもしれない。天照大神に日中、月夜見尊に夜、素戔嗚尊に海……」
熊野は海に近い土地。海を治めるために熊野に至ったっていうのもあながち外れではないかもしれない、と陸は書物から顔を上げた。
「熊野……。行ってみる価値、あるよな……」
士郎が消えて八度目の春、陸は決意を固めた。
雨音が激しくなり、夜になって風も出てきた。士郎の消えた日はいつも雨で、アーチャーと二人で士郎の消えた雨の庭を見て過ごすのが毎年恒例になっている。
一年前の夏に正式な陰陽師となった陸に、アーチャーは陰陽師としては一人前だと言った。
「やっとだね、アーチャー」
今も寝ないで庭を見ているだろうアーチャーに、静かに呟く。
陸を一人前にするのが士郎との約束だと言っていたアーチャーの役目は終わった。
陸は決めた、アーチャーを士郎の許へ送ることを。
まだ何も確かな手掛かりはないが、それだけは決めている。もう、自分の世話係みたいなことをやらせておくわけにはいかない。
(おれにはイザナミも式神もいるから、大丈夫だよ。加茂家ともうまくやっていける。だから、アーチャーを自由にしてあげるよ……)
布団を引き上げ、目を閉じる。
雨音が瓦を叩く音がする。
「きっと、いるはずだ……」
士郎は自分たちの前から消えたが、どこかに存在していると、陸は確信をもって言える。その根拠は、と言われればうまく説明はできないが、予感、というか、直感が、そう教えてくれるのだ。これが陸の内なるものの影響なのかはわからないが、自分が間違っていないという自信はある。
夏に向けて、陸は一人、歩き出す準備をはじめた。
梅雨が明け、陽射しが肌を焦がすように照り付ける七月、待ちに待っていた夏休みが始まった。
学生ならば誰しも待っているはずの時期なのだが、陸はそういう意味とは少し違う。陸は、大きな一歩を踏み出そうとしている。
夏休みに入ってすぐに加茂家に行き、それらしい文献をざっと確認してから、陸は熊野へと向かった。
午前中に熊野へと至った陸は神社を巡り霊査を試みる。名の知れた神社は大きいだけに、うまく感知できず、雑音のようなさざめきだけが拾えるだけだった。
「難しいな……」
観光客の多さも問題だ。雑念が多くて、集中しにくい。猛暑日の暑さも加わり、少々疲れてきた陸は、めぼしい場所を絞ることにした。
いくつか小さな神社を回って、最後の候補地へと向かう。夏の午後の陽射しは身体が溶けそうなほどキツい。飲み干したスポーツドリンクのボトルをゴミ箱に入れ、断崖の上を見上げる。大岩が崖の上に乗っているように見えた。
「あそこだと、いいけど……」
崖に沿い、自然石で作られた急な階段を登る。暑さのせいか蝉も木陰で休んでいるのだろう、思いのほか静かだ。
飲んだ水分が全て汗として流れ出ていく気がした。山登りに近いが、現役高校生にはそうキツい道程ではない。休むことなく登り、天辺に着いてホッと息を吐き、振り返る。
午後の陽射しを跳ね返す、煌めく海が見えた。
「海の神様にはもってこいのロケーションだ」
呟きながら顔を上げた。目の前に迫ると、その威厳と大きさに圧倒されそうになる。
「磐座には、申し分ないよね……」
ごく、と生唾を呑む。加茂家にあった真っ二つの岩に比べれば大きさも神性も桁が違うと感じられる。呼吸を整えて、岩の表面に掌をかざした。
「何か、教えて。おれに何か、伝えたいことを、聞かせて……」
口中で呟く。観光客がいないわけではない。この猛暑でも絶景を求め、この崖の階段を登るアマチュアカメラマンはいる。怪しげな行為は慎んだ方がいいと陸は知っている。
――主が戻った!
ハッとする。歓喜に満ちた声がする。歓声のようなざわめきがある。
(主が戻った? てことは、素戔嗚尊?)
ここだ、とわかった。素戔嗚尊の斎地はここだとわかった。だが、士郎の痕跡が感じられない。
「おれの思い違いかな? 素戔嗚尊が元に戻ったんなら、士郎もって思ったんだけど……」
焦ってきて、何度も霊査を試みるが、主帰還の歓喜しか岩は伝えてこない。
「空振り、かぁ……」
大岩の周りを、がっかりしながら歩く。とりあえず休憩をしようと日陰を求め、大岩のちょうど裏側まで来る。陽射しが遮られただけで、ほっとするほど涼しく感じる。
神域の空気は清浄さを感じさせ、心地がいいものだった。苔むした岩肌を見上げる。
(おれの勘違いだったのかぁ……)
ここだと思ったが、痕跡がない。素戔嗚尊を追っても無駄だったのかと、ふりだしに戻ったことに陸はため息をつく。
「アーチャーを自由にって思ったのに……」
――アーチャー……。
「え?」
何度か瞬く。慌てて岩に指先を触れた。
――ごめんな、アーチャー、泣かせるつもりなんてなかった……。
「士郎?」
驚きと、うれしさで、思わず岩に額を預けた。
――忘れないでくれよ……。俺のこと、忘れないって言っただろ! だったら、来いよ! ここに、俺のところに!
士郎の悲痛な声が聞こえた。ずっとアーチャーを呼び続ける声。
「士郎……、ここ、に……?」
切ない声が、アーチャーを呼んでいる。
「わかった、士郎。おれが連れて来るから! ま、待ってて!」
興奮して言い、すぐに駆け出した。崖のような石段を駆け下りる。
「すぐに! すぐに、アーチャーを!」
陸の頭の中はそれだけだった。
***
バタバタと廊下を走って近づく足音。開いた障子の側にボストンバッグを落とすように置き、
「見つけたよ、アーチャー!」
陸が叫ぶ。
騒々しいことこの上ない、と目を据わらせて振り返る。
早朝に戻るから、と連絡を受けていたオレは、台所で朝食を準備していた。
夏休みに入るとともに五日ほど加茂家に滞在していた陸は、衛宮邸に戻るなり、何やら興奮冷めやらぬ様子だ。
「何をだ? オオクワでも採ってきたのか?」
呆れながら言って、カウンターに食事を置く。
「そんなわけないだろ、いつまで子供だと思ってるんだよ!」
「帰ってくるなり、荷物をそんなところに置きっぱなしの奴のどこに、大人の要素があるのだ? まったく……」
「わかったよ、片づけるから! って、それより、わかったんだって!」
「だから、何がわかったと――」
作品名:Rain stops 作家名:さやけ