Rain stops
「士郎のいるところだよ!」
「…………」
台所から出て、陸の額に手を当てる。
熱はない。
頭を鷲掴み、傷がないか確かめる。
事故にでも遭っておかしくなってしまったのかもしれない。
「熱もないし、頭も打ってないよ!」
オレの手を頭からひっ剥がし、陸は真っ直ぐな目でオレを見る。
「熊野だよ」
「くま……、何を言っている、どうして、し……」
その名を口にしようとしてやめる。この手の中から消えた士郎の名を呼ぶことは、苦しくてたまらない。
「調べたんだ、あの荒神のこと。そしたら、これだった」
しゃがんでバッグの中をあさり、教科書らしきものを取り出して、そのページにあるイラストを指さしている。それは、日本神話の箇所。あまりにも有名な神の名が書かれている。
「士郎がいろいろ調べてて、それを、おれは追っていった。最終的に辿り着いたのが、熊野地方」
説明する陸に頭がついていかない。
荒神がその神だったからといって、どうして、士郎が熊野にいるとわかるのか?
(そもそも、陸は加茂家に滞在していたはずで……)
オレは現実を見ようと、動揺を抑えつつ陸を見据える。
「陸、加茂家に行っていたのではなかったのか?」
「三日くらい蔵の古文書を漁って、確かめてから熊野に向かった。あそこにいる、絶対」
陸の霊査能力は一流だ。実際に行って確かめたというのなら、確率は高い。ほぼ、間違いないはずだ。
(いや、だが、そんなことがあるのか?)
陸から視線を落とし、自らの手を見つめる。
士郎は消えた、あの日の朝。オレの腕の中から、黒い靄となって、オレのこの手には何も残らず……。
「っ……」
抑えていたものが溢れそうになって拳を握る。
「あそこにいるんだよ、士郎は!」
訴えかけるように陸は繰り返す。
そこにいる、とは言うものの、陸は姿を見ていないのだろう?
それに、そこにいたとして、ならば、どうして、戻ってこない?
生きているのなら、どうしてここに……。
「行こう、アーチャー」
真っ直ぐにオレを見つめる瞳の一つは、士郎と同じ琥珀色。眩暈がする。強い意志を持った瞳は、毒のようにオレを侵食し、揺さぶる。
「いや、だが、そこにいたとしても――」
「隠ってる」
オレの意を汲んだように、陸は答えた。
「隠る、とは……」
「荒神は本来の場所に戻った。たぶん、士郎が本当の居場所を探し当てて、最後に送ったと思うんだ」
確かに、古文書を漁って調べ物をしていたが、何も答えを得られた様子ではなかった。
それを最後の最後に、あんな状態で、真実を見極めたというのか?
全身から血を流し、オレを気遣い、その上、荒神の本来の斎地を探し当て……。
(どうして……)
その十分の一でもいいから、なぜ、自分のために力を注がなかったのか、どうしようもない衛宮士郎……。
(まったく、本当にお前は……)
片手で目元を覆う。八年ぶりに涙があふれた。
「行こう、アーチャー。おれが送ってあげるから」
「陸?」
「おれは、もう平気。イザナミも式神もいるし、正式な陰陽師にもなった。もう一人前なんだよ! あとのことは大丈夫だから、士郎のところに行ってあげてよ」
「陸、なにを……」
「あそこに行ってわかった。士郎が今、どんな気持ちでいるのかって」
「士郎の、気持ち?」
「と、とにかく、タクシー待たせてるから!」
「ま、待たせてあるのか? なぜ先にそれを、」
「はい、急ぐ、急ぐ!」
オレは陸に背中を押されて、衛宮邸の前に停まっていたタクシーに乗せられた。
車中で陸は、その場所で感じたことを話してくれた。オレが訊けなかった士郎の心を回り回って陸に聞かされる日が来るとは、予想外もいいところだ。
衛宮士郎は、本当に世話が焼ける。
崖の上に大岩が突き出しているようだった。その岩に注連縄が施されていることから、神性のあるものであることはわかる。
その一種異様な光景にも驚くが、ここのどこに士郎が隠っているというのか、まったくもって信じがたい。
「暗くなると足元見えなくなるから、さっさと行こう」
確かに自然石であつらえられた階段は、急であるため、明るいうちに昇降をした方が良さそうだ。霊体化して陸に続く。人一人が通れるほどの狭くて急な石段を陸は軽々と登っていく。
天辺に着き、陸は大岩の裏側へ向かった。式神がオレたちの周りに結界を張り、オレは霊体化を解いて陸と並ぶ。
「この岩の中なんだ」
陸の言葉に、耳を疑う。
「岩の中? どういうことだ?」
「元々、荒神はここにいた神様だった。どういう経緯かは知らないけど、あちこちの社を転々として、最終的に加茂家の裏庭にあった、あの岩に封じられちゃったんだ。それに気づいた士郎は、賭けに出たんだと思う。荒神を元の場所に戻せば、もしかしたら道が開けるかもしれないって、僅かな望みを賭けて」
士郎が加茂家で言った言葉を思い出す。忘れられて元の居場所もわからなくなった、と言っていた。
あの時から、探していたのだろうか、あの荒神の還るべき場所を。
「諦めてなかったんだよ、最後まで。きっと、士郎も探していたはずなんだ、アーチャーと一緒にいられる方法を。あの神様が、忌神になってしまって、自力でここに戻れないのを、士郎が手助けしたんだよ、きっと。家からここまで道を作って、荒神を戻れるようにって……」
「馬鹿な……、あんな状態で、なんて無茶を……」
「でも、間違いじゃないと思う。だって、うまくいけば、神様だろ? その力で、自分自身もなんとかなるかもしれないって、賭けたんだよ、士郎は」
「だとしても、無茶苦茶だ。確証のない賭けに出るなど……」
陸に静かに見つめられ、言葉は先細った。
「確証がなくても、縋り付きたかったんじゃないかな。アーチャーとまだ一緒にいたかったんじゃないかな、士郎は」
それはオレもだ。だが、士郎は消えたくないと、まだここにいたいとは、一言も言わなかった。
陸を見ていられず、足元に視線が落ちる。
(言わなかったのではなく、言えなかったのだ……)
士郎が消えたくないと願っていても、口にできなかったのは、オレのせいだ。オレを気遣って、士郎は何も言わなかった。
「そんな顔しないでよ、アーチャー。だから、おれが送ってあげるんだって。任しといてよ」
笑う陸の顔を見る。いつものように自信満々だ。こんな突拍子もないことをしようとしているのに、ためらいがない。オレを士郎の許へ送ることに、陸は欠片も躊躇していない。
「いや……、だが、陸、お前は……」
まだ子供だ。陰陽師としては一人前かもしれないが、まだ成人したわけではない、いくら同年代よりも色々な経験をしているといっても、高校生だ。
陸はオレを送ると言った。士郎に会わせる、ではなく、士郎の許へ送ると。
それは、オレがここからいなくなる、ということだ。それでは陸が一人残されることになる。オレは士郎に陸を託されたのだ、そんなことはできない。
「待て、陸、やはり、」
「たくさん傷つけた。泣かせるつもりなんてなかった。忘れないでくれ。おれのところに来い。忘れないって言っただろ。勝手なことをしてごめん。酷いことをした。おれの名前、呼んでくれ……」
作品名:Rain stops 作家名:さやけ