Rain stops
立て続けに吐かれた陸の言葉に、目を瞠る。
「……士郎の声だよ。今も感じる。もう、ほんと、なんだよってくらい、アーチャーのことしか想ってないよ。ちょっとくらい、おれのこと、想ってくれてもいいのにさぁ」
ため息交じりに言って笑う陸は、真剣な目をオレに向けた。
「アーチャー、こんなに呼んでるのに、放っておくの?」
(陸はもう、とっくに覚悟を決めていたのか……)
オレだけが揺らいでいるわけにはいかない。オレを見上げる陸に、唇を引き結ぶ。
「放っておくわけがないだろう」
言いながら概念武装に切り替えた。
赤い外套が翻る。陸から大岩に目を移し、その苔むした岩肌を見据える。
「だね。穴をあけて、閉じると同時に契約を解除するよ。あとは、アーチャーが士郎を見つけるだけだ」
「陸、それは一方通行の片道切符ということだな? 行ったら最後、戻れない、という……」
わかっていたが、念のために訊いた。だが、逆に切り返される。
「戻るつもりないだろ? アーチャー」
「…………」
「おれ、知ってたよ。アーチャーが無理してるの。ほんとは、士郎が忘れられなくて、立っているのも辛そうなのに、必死で思い出さないようにして、おれのために一生懸命、泣くのも我慢してるって。
ありがとう、アーチャー。おれはもう、大丈夫だから。アーチャーは自分のために歩き出してよ」
「陸……」
こんな子供に気を遣わせて、凛が聞いたら呆れるだろう……。
「凛ねえにも、ちゃんと言っとくから!」
察しがいいのは誰に似たのだろうか、苦笑いが浮かんでしまう。
「いくよ、アーチャー!」
大岩に両手をかざし、陸の呪が次々と編まれていく。オレたちの周りでは、式神が結界を強化して境界を作り、人が近づかないようにしている。
目の前の岩に黒い空洞ができた。真っ暗でその先は見えない。
「アーチャー、いいよ」
陸の声に頷く。
「陸、元気でな」
「アーチャー、楽しかったよ、おれ。アーチャーと過ごせて、すごく、楽しかった! 士郎によろしく! 大丈夫だって伝えて!」
歯を見せて笑った陸に、笑みを返す。
「私もだ、陸。お前との日々も楽しかった。士郎に伝えておく、陸は一人前になったとな」
オレが大岩に踏み入った瞬間、陸との契約が切れ、入り口は閉ざされた。“世界”さえつけ入る隙のないタイミングに、陸はもう立派な陰陽師だとわかった。
(陸は、大丈夫だ)
頷いて、オレは自身の一歩を、踏み出した。
暗闇の中を進む。
一点の灯りもない。
目を開けていても閉じていても変わらない。
音もない。
自身の呼吸と鼓動だけが聞こえる。
真っ直ぐに歩いているつもりだが、地に足が着いているのかも不確かで、身体が浮いているのかどうかもわからない。上がっているのか下っているのか、はたまた、落ちているのかもわからない空間を、オレは“歩いて”いる。やがて……、
ジャリ。
初めて捉えた感覚は、足の下の乾いた土。下を向いて足元を見た。
地面がある。そこに立っている。
暗闇から出た。
認識した途端に風が吹いて、顔を上げる。
視界が開けた。
風に雲が流れている。雲の向こうには、明るい空が広がっている。
「これ……は……」
地に刺さる無数の剣が乱立している。
「ここは…………剣の、丘……」
乾いた大地に風が吹き、砂埃が舞う、衛宮士郎の心象世界。
頭で理解する前に、オレの足は、なだらかな丘の天辺を目指して歩き出していた。
そこに必ずいるはずだと、確信めいたものがある。オレが展開したわけではないこの結界を発動させることができるのは、衛宮士郎ただ一人だ。ならば、ここにいるのだ、絶対に。
砂埃の先に、丘の頂上が見えてきた。そこには思った通り人影がある。風に白っぽい外套が煽られている。
鼓動が跳ねた。
やはり、いる。
そこに、いた。
(いや、まだ、士郎だと決まったわけでは……)
内心言い訳じみたことを思いながら、一歩一歩を踏みしめる。
会いたい、だが、不確定さが逸る気持ちを上回り、オレの動きを制限している。
(もし、間違いだったなら、オレはどうすればいいのか……)
不安が胸のうちに広がる。
オレの足音に気づいたのか、はたまた偶然か、その人影は、ゆっくりと振り返った。頭から被っていた外套が風に煽られ、ずり落ちた。
遠目でもわかる、赤銅色の髪を風に撫でられたまま、身動きを忘れて、こちらを凝視しているその瞳は、琥珀色……。
口元まで覆っていた外套を引き下げ、その唇が僅かに動いた。
声は聞こえない。
風の音で掻き消されて、その声は何も。
そいつがへたり込むように膝をついた。
いてもたってもいられず走り出す。
この距離がもどかしい。
一瞬すら、長く感じる。
自身に苛立つ、もっと速く走れないのかと。
「……っ…………」
ようやく膝をついたそいつの前に立った。
呼吸がしづらい。
鼓動も速い。
乾いた風に巻きあがる砂埃のせいもある。
走ったせいもある。
だが、それだけではなく、オレの呼吸も鼓動も、すべて、目の前のこの存在が握っているような気がする。
項垂れたその赤銅色の髪を見下ろし、両腕を伸ばそうとした。
だが、触れていいものか、戸惑う。
もし、オレがわからなかったら?
オレのように、記憶がなかったら?
失った恐怖が再び湧き上がってくる。
(こいつは、オレの知る、衛宮士郎なのか?)
疑念が拭えないまま、立ち尽くす。
言葉も浮かばない。
何をどう言えばいいのか、何をどうすればいいのか、こんなことは初めてで、想定外で、混乱の極みだ。
やがて顔を上げたそいつは、真っ直ぐにオレを見上げた。
琥珀色の瞳は濡れている。
「……アー、チャー……」
震える唇からその声が漏れた。
「っ……」
声を聞いた瞬間、ふ、と全身から力が抜けそうになる。
どうにか堪えたが、崩れ落ちるように膝をついて、抱きしめた。
強く、強く。
(士郎の、声……)
幻ではない声が耳に届く。
唇が、呼吸が震えて、声が出ない。
あの時、消える身体をどうすることもできず、泣くことしかできなかった己の愚かさを、忘れた日はなかった。
「……っ」
「アーチャー、なんで! どうやって!」
士郎の声が耳に届くだけで、十分だ。
何もかもがこみ上げてきて一度に出そうで、逆に何も出ない。声も言葉も全く。呼吸すらやっとなのに、どうすればいいのか……。
ただ士郎を抱きしめる腕に力がこもるだけだ。
「アーチャー、呼んで、くれよ……俺を……アーチャー……」
くぐもった声に応えようと、何度も息を吸う。
(早く、声を……)
答えたい、自分を呼べと言う士郎に、早く答えたい。
声すら上手く出せない自身に苛立つ。
「し、ろぅ、っ……し、ろう……」
やっと声が出た。
「士郎っ」
やっと呼ぶことができた。ずっと我慢していた、この名を呼ぶことを。
「アーチャー……」
背中に回った手がオレを抱きしめてくれる。あの時はもう、オレを抱き返してはくれなかった。
「士郎……」
いつも士郎はオレを呼んでくれた。
作品名:Rain stops 作家名:さやけ