DOODLES
おかえりなさい
持ち出した荷物は大きめのトランクひとつ分。片手で持つには少々大きいが、15年余の人生を詰め込むには少々小さすぎる。ニセモノっぽい皮張りのそれは、見た目よりずっと重たい。けれど誰も代わりに持ってなどくれないから、サンジは左手にそれをぶら下げた。手の平に食い込む感触が旅立ちの合図だ。
早朝の空気には慣れていたつもりだったけれど、戻る家を失った今ではその静けさと冷たさが一段違ったもののように感じる。生身の身体を容赦なく包む、世界の空気だ。サンジは乾いてパリパリになった唇を一度舐めた。舌で擦ると、微かにひび割れた部分がチリ、と痛んだ。
彼の背中の向こうにあるのは、『レストラン・バラティエ』。屋根に取り付けられた巨大な魚のオブジェは間抜けだが、看板を飾る金色の文字は洒落ている。ちぐはぐな印象はひと目見た限りではまるで消費社会の先頭に立つチープなファミリーレストランのようだけれど、実は本格フレンチを出す上等な店だ。そしてサンジが育ったふるさとでもある。旅立ちの場所でも。
表からも見える破壊された壁は、昨夜の大乱闘の名残だった。誰と誰が争ったのかと言えば、サンジと、その育ての親であるバラティエのオーナー・ゼフだ。それだけ言うと家庭内暴力だとかDVだとか現代社会の歪みだとか物騒な単語が浮かんでくるけれども、実のところ、ただの喧嘩である。ただの喧嘩で壁が大破するなんて、と眉をひそめるのは、バラティエを知らないものだけだ。オーナー・ゼフ、もといクソジジイは少々足癖が悪く、またサンジも少々足癖が悪い。そしてお互い、ガラも悪い。ただ、仲は良い。口当たりの良い言葉を選ぶなら、さしずめ"愛情の再確認"――いや、そんな上等なものでは、もちろんないのだけれど。
サンジがトランクひとつ持って早朝の空気の中に飛び出すことになった直接の原因は、この喧嘩かと思いきや、そういうわけでもない。元々決めていたことだった。サンジは現在、18歳。ちょうど昨日、普通科の高等学校を卒業したところだ。18歳のサンジは、昨晩卒業証書をポイと放り投げるやいなや、言った。
「じゃあ、俺ァそろそろ行くぜ」
「なんだてめえ。ガキが夜出歩くなんてけしからん」
「俺ァガキじゃねえ」
「ガキだろ。ガキで、チビナスだ」
「なんだとクソジジイ」
お決まりのやり取りをした後、サンジは卒業証書の筒をシンクに放り投げ、クソジジイは鍋の中にお玉を置いた。で、愛情の再確認だ。
結局その後はお互いタンコブを冷やしながら(もっとも、サンジのそれはジジイの数倍もあったが)メシを食い、いつの間にか椅子に座ったまま寝こけていた。サンジが朝起きるとおでこに当てていた氷嚢はすっかり水嚢になり、身体にはクマのプーさんの毛布が掛けられていた。
(……じゃあな、クソジジイ)
でも、いつか俺はここに戻ってくるぜ。いつになるかは、知れねえけど。
革張りのトランクのほかに、サンジはズボンの尻ポケットに薄い財布を仕舞っていた。中身は、近所のスーパーのポイントカード、近所の商店街のポイントカード、近所のレンタルビデオ店の会員カードと、それに1万円札が3枚、千円札が4枚。あと小銭がジャラジャラ。旅立ちの手持ちとしてはかなり心もとないけれど、どうにかできる話でもない。どうにかする気もない。
(……まずは、これからどうやって生活してくかだ)
かなり危うい経済観念とは裏腹に、サンジは彼なりに現実的に今後のことを考えた。一応の展望はあった。サンジが目指すのは、料理人だ。それ以外の道については考えたこともない。だから、とりあえずどこか飲食店で働く。敷金礼金などまったく意味がわからないし金もないので、できれば住み込みで働く。これでOK。現実的と思っているのは本人ばかりである。
ひとまず、サンジは電車に乗ることにした。これまでの学生生活、徒歩もしくは自転車で通学していたサンジにとっては、あまり慣れない乗り物だ。小中学校の遠足のときくらいしか乗ったことはないし、正直に言うと、1人で乗ったことは一度もない。電車の素人だ。
素人だと思われたら、きっとナメられるな。
ものごとを深く考えない性質のサンジは本能に近い部分でそう確信すると、できるだけ玄人に見えるよう背をピンと伸ばし堂々と無人駅の中に入った。扉のついていない構内には夜の冷たさと湿気が残っていたけれど、玄人サンジにとってはわけもないことだ。チラ、と素早く視線を走らせると、壁に張り付くようにして置かれた、見覚えのある機械が見えた。券売機ってやつだ。いかにも、最初から知ってたぜ、よく使ってるぜ、という顔付きでスタスタとそこに歩み寄ると、機械の横には駅名と思しき文字と値段を横書きにしたものが、一行づつ縦に並んでいた。
サンジは知らなかったけれど、それは急行列車が止まる駅名のリストだった。行数はそう多くはない。ひとまずは、どこへ行くべきか……。サンジはポケットから財布を取り出した。小銭を数える。100円玉が、2枚。500円玉が1枚。10円玉が、ええと、3枚。730円。例のごとくものごとを深く考えない性質のサンジは、730円がリストにないかどうか探した。ない。だが、720円というのがあった。駅名、『グランドライン』。なかなか大層な名前だ。それに、なんとなく聞き覚えがあるような気もする。
やはり、ものごとを深く考えないまま、サンジは貯金箱に入れるのと同じようなノリで券売機に小銭を投入した。赤色の『720』のボタンを押す。
玄人だな、とひとり満足げにニヤついた。
ガー、と出てきた切符を手にすると、サンジはまっすぐ改札機へと向かった。実は最初、駅に入ったときから目に付いていたのだ。
(俺ァ知ってるぜ、ここに切符通すんだろ、わけもねえ)
背をピンと伸ばしたまま、サンジは黄色い小さな切符を改札のいかにも「ここに入れてください」的な隙間に放り込んだ。案の定、扉が開いて改札機の向こう側からピョン、と切符が飛び出てくる。
(ああ、ちゃんとその切符持ってかなきゃいけねえんだろ。騙されるかよ。あさはかな奴……)
得意げに、そして意気揚々とホームに向かったサンジは、残念ながら始発の時間まであと1時間半もあるということに、まったく気付いていないのだった。
*
「んだよクソ……高ェ金取るわりにノロノロ進みやがって!」
鈍行の列車から飛び降り、サンジは真っ赤な車体に向かって悪態を吐いた。彼が、急行列車というものの存在、そしてそれはクリーム色の車体なのだということを知っていればもう少し違った感想を持ったのかもしれない。しかし、それはまあ、過ぎた話だ。
トランクを持ち上げ、サンジはイライラとホームを真っ直ぐに進んだ。改札機に切符を投げ入れ、やる気なさそうな駅員をひと睨みしてから表に出る。既に太陽は満遍なく地上を照らし始めている。
(で、ここはどこなんだ)