無題if 赤と青 Rot und blau
赤を失い、青は壊れる。
あなたがいなくなった世界は、瞬く間に色を変えて崩れていった。
最初は上手くいっていた。フランスを落とし、イギリスを黙らせ、邪魔なポーランドを追いやって、分断されていたあなたへと続く回廊を繋いで、何もかもが。
それを、喜んでくれると思っていた。あなたは俺を誉めてくれると。
それが、何だ。何で、兄さんはあんなことを言うんだ。
俺から離れていこうとするんだ?
俺が何をした?邪魔なものを片付けただけじゃないか。
奪われたものを取り返しただけじゃないか。
あなたの「さようなら」が、俺には理解できない。
俺は正しいことをしている。
どうして、あんな悲しそうな顔をするんだ?
俺はあなたを喜ばせたいだけなのに。
あなたに誉めてもらいたいだけなのに。
「ドイツ、探したんだよ。ここに居たんだ。…あれ?プロイセンは」
ノックもなく開かれたドア。部屋を覗き込むイタリアにドイツはゆっくりと振り返った。
「…イタリア」
「…どうしたの?酷い顔してるよ、ドイツ」
心配そうに眉を寄せたイタリアがドイツの血の気の失せた頬を撫でる。それにドイツは目を細め、イタリアのその手を掴んだ。
「ドイツ?」
「…イタリア、俺は正しいことをしてる。そうだな?」
こちらを見つめる青は酷く冷たく凍えている。イタリアはその目を見つめ、小さく頷いた。それにドイツの青は緩む。
「そう、俺は正しいことをしている。間違っているのは兄さんの方だ」
「国」が存続していくために必要なのは、選ばれた血統だ。その中に異なる血統など必要ない。「悪種」は排除しなければ、この世界が汚れてしまう。
俺とあなたの帝国に薄汚い余所者などいらない。美しいもの正しいものだけあればいい。出来上がった理想郷を見れば、赤を細め、あなたは笑ってくれるだろう。お前は間違ってなかったと。
「…ドイツ、ねぇ、どうしたの?」
いつもの生真面目で何かにつけて説教をしてくる、それでも気遣いを忘れたことのないやさしい青年の目はどこか虚ろで焦点が合っていない。イタリアは眉を顰める。
「ねぇ、ドイツ」
プロイセンはどこにいってしまったのだろう。ドイツは少しおかしい。こんな風になったドイツをイタリアは見たことがない。
「…イタリア、絶対に俺を裏切るな。…信じてるぞ」
言葉を遮るように頬を撫で、唇を塞いだ黒革の手袋から微かに漂ったのは、血の匂い。見つめるその青は酷薄で酷く冷たい。イタリアは息を呑む。よく知っているはずの青年がまるで別人のように映る。
(…怖いよ、ドイツ、どうしちゃったの?)
そう思いながらも、イタリアは頷くことしか出来なかった。
プロイセンが自ら志願し東部前線に行ったのだと、イタリアが知ったのは随分と後になってからのことだった。
プロイセンがいなくなった。
誰も、ドイツを止めることが出来なくなった。ドイツを止める事が出来る、諌めることが出来るのは、ドイツの父であり、兄であり、師であり、ドイツがもっとも信頼し、敬愛するプロイセンだけだった。
生真面目でやさしかったドイツは変わっていった。狂い始めた時代の奔流に呑み込まれ、この世界の狂気がドイツの理性を殺してしまった。酷薄さが一際際立つようになった瞳。会う度に、その体からは血の匂いがした。着けた手袋が鮮血に汚れていることさえあった。
箍の外れたこの国は急ぎ足で破滅への階段を駆け上がっていく。そうすれば、何もかもが上手く、自分の思うように事が運ぶのだと信じるように。
ドイツの親戚達は暴走し始めたドイツを止める事が出来ない。そして、イタリアも。怯えながら、早く、ドイツが穏やかに自分に笑ってくれるようになればいいとそればかりを祈っていた。
その祈りも虚しく、ドイツはこの狂った国を内包し、加虐を増し、ゲットーへと連行されていく移民を平気で嬲り殺すようになっていった。
「…奴等の命乞いをするときの顔を見たことがあるか?…本当に醜い。滑稽だ。奴等には潔さも何もない。自分の命さえ助かればいいらしい。平気で他人に罪を擦り付け、平然とした顔で媚び諂う。恋人を家族を売るから助けてくれと言う。ああ、本当に見苦しい」
命乞いする男に対して、ドイツは無言でピストルを取り出し、足、肩、腹、そして、最後に心臓を撃った。悲鳴を上げ、悶絶し事切れた男を見下ろし、汚物を見るような顔をしてそう吐き捨てる。でも、その目は愉悦に良い、恍惚に濡れている。それが、イタリアには怖くてならなかった。
(オレの知ってるドイツはどこに行っちゃったの?オレの知っているドイツはこんなことする奴じゃなかった。やさしい奴だった。…夢なら、早く覚めてよ…お願いだから…)
「プロイセン」と言う「箍」を失い、時代の狂気にそのまま飲み込まれ、「ドイツ」は壊れていく。それをどうして、プロイセンは止めようとしない?その身を与えるほど愛してたのに。ドイツのそばにプロイセンはいない。ドイツを置いてどこに行ってしまった?
ドイツを…オレの大好きだったあの子を「渡さない」とオレに言ったくせに。
「…イタリアちゃん、特別に紹介してやるよ。おいで、ライヒ」
ヴェルサイユ宮殿。ドイツ帝国の帝冠式に招かれたイタリアはプロイセンの正装の軍服の裾を掴み、背に隠れ、特別に誂えたらしい白い純白の礼装、床に届く青いマントに身を包んだ子どもに気づいて、瞳を瞬かせた。視線を上げた子どもはイタリアを見やり、プロイセンを見上げた。その子どもの青を今も鮮明に覚えている。プロイセンに愛されているのが解った。美しく澄んだ空の色を映す瞳、林檎のように赤く染まった頬。その頬を撫でられ、子どもは擽ったそうに首を竦めた。
「俺の弟、ドイツだ。可愛いだろ?」
そう言った赤も誇らしげで慈愛に満ちて微笑むプロイセンなど、イタリアは知らなかった。そして、羨ましくなった。プロイセンにこんなにも、愛されている子どもが。
愛されることは素晴らしい。簡単にそれを誰も与えてはくれないのだ。…自分は確かに祖父に溺愛された、でもその祖父を失い、オーストリアの元で小間使いとして働くことになって…そこで出会った少年と小さな恋をした。その少年は自分のもとを去ってしまった。いつか、必ず、会おうと約束して。…それから、自分を好きだと言ってくれるひとには何人も会ったけれど、離れてしまえばそれまでだった。こんなに、ずっと存在を望んでいたと…愛されるのは神の愛にも勝るほど、至高なことだろう。
プロイセンは子どもを「ライヒ(帝国)」と呼んだ。
自分の身をこの子どもにいずれは捧げるつもりなのだろう。そこまで子どもを、プロイセンは愛しているのだ。そして、子どもはプロイセンの無償の愛を信じて、疑ってはいないのだろう。
「うん。可愛いね。オレは、イタリアだよ」
「イタリア?」
自分を見上げる子どもの青い目が、あの少年の青に重なる。見れば見る程、この子どもは自分を好きだと言ってくれた少年に姿形、すべてが重なる。忽然とこの世界から、二度と会うこともなく名前も姿も無くなってしまった少年に…。
「…ねぇ、君は、」
作品名:無題if 赤と青 Rot und blau 作家名:冬故