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一握りの

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「よっ」
 そして路地裏に放置された自動販売機を見つけ、軽い気持ちで持ち上げてみた。
「はは、上がったぞ静雄…!」
 恐々とであるので両腕で、だが自動販売機はトムの頭ぐらいまで持ち上げられた。トムとしては思い切り力を込めたつもりはない、ただ目覚まし時計やファーストフードのトレイでは得られなかった手応えをその日初めて感じて高揚する。
 静雄は無言で呆然と自動販売機とトムを見つめていた。青いグラスの向こうで眼が不安定に揺れる。口に銜えたまま火をつけ忘れた煙草はフィルターがふやけて今にも落ちそうだ。
 トムはゆっくりと自動販売機を下ろす。投げてみたい気もしたが目立つことはしたくない。地面と触れ合う際に狭い路地に響き渡った音がその異常な重さを伝えてくる、だが相変わらず重量に見合った手応えはない。
「すげーっす、トムさん」
 ぱち、ぱち、ぱち。ゆったりとしたテンポの拍手、そして静雄が賛辞を述べるために開いた口からとうとうふやけ切った煙草が落ちた。
 灰色のビルに左右を囲まれた縦長の歪な空間、暖色と寒色を織り交ぜたグラデーションの背景が今にも落ちて来そうな錯覚を覚える。だが不安定なのは刹那、錯覚を覚えたトムの眼ではなく夕日を背に暗い影を落とす静雄の眼。
「静雄」
「はい」
「帰んべ」
「…はい」

 今日は早番だったので上がるのも早い、タイムカードで厳密に時間給を計算している訳でもなく仕事柄直行・直帰も多い。
 それでも今日ほど早く仕事を切り上げた日は今までになかった。今日何件回るかはトムのみが知ることで静雄はいつも後をついていくだけだったから、仕事が終わったかどうかはトム次第だった。
 今までの経験からまだ今日の仕事は終わっていないとわかる、それでもトムは仕事を切り上げた。何か考えるところがあるのだろう、と静雄はワンテンポ遅れて返事を返した。
 
 自分と同じ、力を手に入れてしまったのだから。



「お前もこっち」
 と、トムに襟を引っ張られてタクシーに押し込まれる。程なくして着いたトムのアパートの前、面倒くさそうに釣りはいらないと札を押し付けてタクシーを降りた。自動で開閉するタクシーのドアをトムはありがたそうに見つめる。
「うちの玄関もあれだったらなぁ」
 エレベーターで聞いた呟きが理解できず静雄は返事し損ねたが、トムの部屋の前に来て正しく理解した。
「直せるか?」
「…っす、ちょっと待って下さい」
 歪んだ扉は普通の人間の力では開かないだろう。ほんの数センチだが隙間が開いていて中が伺える。
 扉のノブは壊れていないようである、単純に蝶番から歪んでいるようだ。職業柄オフでも油断はならないためセキュリティのしっかりした、頭に高級とつけても遜色ないマンションに住んでいる。そのため扉が頑丈で、歪んだ弾みに廊下のコンクリートを削っているわりに扉は凹凸一つなく真っ直ぐ屹立している。
 静雄は両手を広げて扉の両端を持つと、歪んだ蝶番に向けて力を込めつつ扉を正常な位置まで戻した。扉が問題なく開閉できるようになり、更に内側からまだ少し出っ張っている蝶番を手のひらで押し戻した。
「サンキューな」
「うす」
 家の中に入るとトムから頼まれるまでもなく静雄はテキパキと動いた。シンクの隅にまとめられたカップの残骸、取っ手が三つあるからきっと三個割ったのだろう。珈琲を二つ持ってテーブルの上に乗せる。
 トムがぼんやりと何も映っていないテレビを見ていたのでリモコンで電源をつけてやる。
「悪ぃ」
「いいっすよ」
 チャンネルぐらいは、と思ったのだろう。珈琲片手に空いてる手をリモコンへ伸ばす、両手共に少し震えていた。
「あ」
 チャンネルを変えることには成功したが、ミシッと言う音と共に黒いプラスチックの表面に亀裂が走る。
「なかなか難しいなこりゃ」

 困ったように笑うトムを前に静雄はとうとう決壊した。

「おっと」
 ガシャン、とトムにとっては朝以来の懐かしい音、カップが割れた。静雄の持っていたカップが割れ、テーブルと床とバーテン制服に黒い飛沫が飛び散る。
 困ったように笑えばいつも通りはにかんで返してくれるとばかり思っていた。晴れない顔をしてカップを手の中で潰して、そしてゆっくりと項垂れた男の小さな小さな呟きにトムは目を見開いた。
「すいません」
 どうして、と聞く口が半開きで止まった。一拍置いてつらつらと話し始めた静雄を見据え、溜まった唾と問いかけを嚥下し口を噤んだ。


作品名:一握りの 作家名:市松氏