比翼の鳥は囀りて
木の曜日の執務室に、控えめなノックの音が響いた。
「ルヴァ様、いらっしゃいますか? アンジェリークです」
「はい、いますよー。どうぞお入りなさい」
「失礼します」
静かに扉を閉め、アンジェリークはルヴァの側へと歩み寄る。
「いらっしゃい。今日はどうしましたかー? エリューシオンには地の力は足りているようですが」
「あの、この間歌の話をしたときに訊きそびれてしまったんですが……螺鈿ってどういうものか知りたくて」
なんとなく金銀財宝っぽいものという認識でいたらしいアンジェリーク。
「ああ~そうですよね、私としたことが説明不足でした! では今日は、そのお話でもしましょうか」
ルヴァは戸棚の中から茶器一式を取り出して、いそいそと準備を始めた。
「あなたが来たらお出ししようと思っていましてね。今日は蓮花茶ですよー」
急須と湯呑みを温め、急須のお湯を捨てる。
茶葉を入れてお湯を注ぐ。
急須の上からお湯を掛けて蒸らす。
湯飲みの湯を急須に掛け捨ててお茶を注ぐ。
手際のいい一連の流れを、アンジェリークはただじっと眺めていた。
「はい、どうぞー」
湯飲みを受け取り、早速香りを確かめるアンジェリーク。
「わぁ、すごくいい香り……! いただきますっ」
お茶菓子を勧めながら、色々な茶葉がしまいこまれた戸棚を指差した。
「蓮花茶はね、緑茶に蓮の花の香りをつけたものなんですよ。蓮の花だけで作られるものもありますが、私は入手しやすくて緑茶の栄養素も摂れるのでこちらのほうが好きなんですけどねー。あーそうそう、このお茶には美肌やダイエット効果もあるそうで、オリヴィエに持っていかれないように隠していたんですよー」
ここだけの話とでも言うようにひそひそと声を潜めたルヴァに、アンジェリークはぷっと吹き出す。
「えっ、じゃあわたしも秘密にしておかなきゃいけませんね。わーおいしーいっ!」
ジャスミン茶ほどの強い香りがなく、緑茶の風味もしっかり感じる繊細な味と香りに、思わず顔を綻ばせるアンジェリーク。
「気に入っていただけたようで良かったです。ではちょっと本を探してきますので、そのまま待っててくださいねー」
「あっ、何かお手伝いしましょうか?」
そう言って腰を浮かしかけたアンジェリークをとどめる。
「あーいえいえ、あなたはここにいてください。すぐ戻りますから」
書庫で本を探しながら、ルヴァは思う。
あのとき……偶然とはいえ彼女ときちんと話せてよかったと。気づかれることがなかったら、自分はまだ密やかに歌を聴いていただけだったろう。
あの一件の前までは、彼女とは大陸の育成以外ではあまり会話をしていなかった。何を話していいのかもわからなかったし、第一会話がかみ合うとも思ってはいなかった。
ところがどうだろう。
今は以前の関係が嘘のように、こちらから会いに行くこともあれば向こうからこうして足を運んでくることもあり、結局ほぼ毎日色々な話題に花を咲かせている。
彼女はとても聡明で優しく、一緒にいる時間がとても心地よいのだ。歌声に夢中になっていた頃と同じく、いまやアンジェリークと過ごす穏やかな時間を心待ちにしていた。
彼女が好きそうなお茶を専用に用意しておくほどに。
「お待たせしてしまいましたねー。よいしょっと」
数冊の本を持ってルヴァが戻ってきた。
「えー螺鈿細工はですね、貝を磨いていくとその中に真珠質といって、虹色や青、白色などに光る層があるんですが、それを薄く加工して、文様の形に切って貼り付けたりする技法のことです」
本の中にある写真のひとつを指差した。
「綺麗……」
頁をめくりながらうっとりと写真を眺めているアンジェリークを、優しく見つめるルヴァ。
「良ければこの本を差し上げますよ。こちらの本にも幾つか写真が載っていますから」
がばっと顔を上げて、アンジェリークは叫んだ。
「だっ、だめです、いただけませんそんな! こんな貴重な本……!」
ルヴァはにっこりと微笑み、あわあわと困った様子のアンジェリークに更に畳み掛ける。
「今までさして読まれることのなかった本です。これもあなたとのご縁だと思いますよー」
そう言ってぐいとアンジェリークのほうへと本を押し付けた。
「でも……」
なおも渋る彼女に、ルヴァは一つの提案をした。
「素敵な歌を聴かせてくれたお礼ってことで。それならいいでしょう?」
アンジェリークは暫く俯いて、やがてこちらへ向き直って言った。
「じゃあ……あり難く頂戴します。その代わり、私からも何かさせてください!」
「どうぞ持っていってください。またあの歌を聴かせてくださいねー」
あの一件から聴いていない。それだけはどうしようもなく寂しかった。
「わかりました。……えっと、今ここで歌うほうがいいですか」
彼女の手がぎゅうと握られたのが視界に入った。きっと急な話に緊張したに違いない。
「うーん、もし良かったら……なんですけれど。近い内にまた湖へご一緒しませんかー?」
緩く息を吐いたのがわかった。
「はい。……じゃあ、そのときに歌いますね。今日はお時間ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、アンジェリークは軽やかに踵を返していった。
ルヴァの心に、はにかんだ笑顔の余韻だけを残して。