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をさなごころ

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 低く抑えた声には、どこか自分で自分を納得させようとねじ伏せるような響きが含まれていた。
「お前は、なぜ医者になる」
 思わぬ切り返しに化野は口ごもった。ギンコはそれ以上重ねては問わず、ふと視線を暗がりに逃がす。
「……蟲だ」
「室内にもいるものか?」
 救われたような気分で問うと、ギンコはこくりと頷いて、化野には見えないそれに触れようとするかのように白い手を伸ばした。
「どこにでもいる。蟲のいないところは、生命のないところだ」
「……悪い蟲か? ここは患者が使う湯屋だし、もし害があるものなら、蟲払いを……」
 かぶりを振って、ギンコは化野に視線を向けた。
「ただそこにあるだけのものだ。きちんと掃除をして、悪い気が溜まらないようにしていれば何も害はない」
「……そうか。じゃあ頑張らないとな」
 藁束を握り直した化野に、ギンコはうっすら笑みをみせた。
「お前は、きっといい医者になる」


 ギンコは器用に天秤棒をあやつり、湯桶に水を張ってゆく。細い見掛けに似合わず足腰が強いのは、山歩きで鍛錬している所為だろう。
「そろそろお休み。先生ももうお怒りがさめたろうから」
 本来の水汲み当番の書生に天秤棒を譲り、賄いの老女が出してくれた労いの茶を、縁側に二人並んで啜る。
 夕陽が海へ沈んでゆく。朱に燃える空にうっすらと紫が混じり始めていた。朱に染まるギンコの横顔をじっと見つめて化野は呟いた。
「難しいな。光線の具合によって色が全く変わる」
「……眼のことか」
 その色を隠すようにギンコは目を伏せた。
「そんな立派な義眼なんて、必要ないのに」
「気にするな。父は妙なところ凝り性なんだ。おかげで蟲師の話がじっくり聞けると喜んでる。……代金をふっかける気なんかないさ、お師さんにも、お前にも」
 夕陽に染まって定かではないが、ギンコの頬が僅かに赤みを増したような気がした。
「毎晩、お師さんを遅くまで座敷に引き留めて、悪いな」
「……そんなこと」
 何やらもぞもぞ呟くと、まだ少し中身の残った茶碗を置いてギンコは立ち上がった。
「もうすぐ飯だぞ。どこへ行く」
「浜。日没に湧く蟲を見てくる」
「遅れずに戻れよ」
 返事はなかった。
海は、陽の当たる波頭だけが朱に輝き、陰の部分は油を流したような黒に沈み始めていた。


 化野の絵図を参考に作られた義眼が届けられたのは、そろそろ季節も移ろうかという頃だった。
 練絹を敷いた桐箱に、宝玉のように収められた硝子の眼球をはじめて目にしたとき、化野はぎくりとすくんだ。虹彩の濃淡まで再現されたそれは、生きているように見えた。
「おお、良い出来だ」
 父は満足げに頷き、ギンコを手招きした。
「……二つある」
 いぶかしむように見上げたギンコに笑みかけて、
「何かの事故で壊れないとも限らないし、念のために二つ作らせたんだよ。一つはうちで預かっておこう。……さあ、どっちがいい」
 二つの義眼を納めた箱を差し出されたギンコは、マキナを見、化野にもちらりと視線を寄越してから、こっち、と片方を指差した。
 初めての診察の日と同じように、診療室には父と化野、ギンコと蟲師の四人だけがいた。異物感に馴れ、義眼の手入れを学ぶために、ギンコの空の眼窩には同じ寸法の硝子球が入っている。再び前掛でギンコの体を覆い、消毒した義眼を嵌め込む。
 化野は、義眼と器具を捧げて食い入るように父の手元を見つめた。いずれ父に代わって、自分がギンコの眼を診る日が来る。誰に言われたわけでもなく、化野にはそういう覚悟ができていた。
 仮の眼球を取り出し、眼窩を消毒して新しい眼を挿れる。布に覆われたギンコの体が僅かに緊張するのがわかる。大丈夫だから、と手を取ってやりたいような気持ちで、化野は小さな洞穴に呑みこまれていく義眼を見つめた。今度は、目を逸らそうとは思わなかった。
「……瞬きをしてごらん」
 白い瞼がゆっくりと降り、開く。右目とずれていた焦点が瞬きにつれて揃った。
「良い出来だ。どこか痛んだりはしないかね?」
「大丈夫です」
 化野はそっと手鏡を差し出した。それを受け取り、ギンコは初めて自分の顔を見るかのようにしみじみと見入った。
「気に入ったかね」
「……はい」
 ギンコは、白い額に明るい光を受けながら、窓の外に遠く広がる海や、水平線を眺めた。
「成長につれて何度か義眼を交換する必要が出てくるだろうし、検査も継続したほうがいい。できるだけ毎年一度は寄ってもらいたい」
「承知した」
「旨い酒と肴を用意して待っているから」
 父と蟲師の会話をよそに、化野はギンコを海へ誘った。
「どんな感じだ?」
 眩しそうに目を細めて沖を見やりつつ、ギンコは首を傾げる。
「……まあ、見えるようになるわけじゃないし、特に変わるはずもないか」
「いや、違うと思う」
 はらはらと海風に前髪が踊る。片目のないうちは反射的にはっと顔を伏せるような仕草をしていたギンコが、気持ちよさそうに額をさらしている。
「これで周りの人を驚かさないですむ。気が楽だ」
「そうか」
 樹々のみどりを吸い込んだような碧の双眸を見返して、化野は自然に微笑んでいた。ギンコもうっすらと笑みを浮かべたものの、すぐに視線を沖に移した。
「……すぐここを発たなきゃ」
 あまりに唐突で、なぜ、と問う声も咄嗟には出なかったが、化野の心を読んだようにギンコは言葉を続けた。
「あんまり長居しすぎた。できるだけ歩き回って散らそうとしてはいたけれど……蟲が寄りすぎてる」
「でも……、ああ、あれは? 蟲払いの香。あれを焚けば」
 ギンコは黙って頭を振る。
「おれは、ひとところには留まれない。無害な蟲でも、集まりすぎると害をなす」
 義眼が入ったら、海山だけでなくあちこちへギンコを連れ出そうと思っていた。異相をはばかって近づけないでいるらしい漁師の子たちとも仲を取り持ってやりたかったし、蟲の話ももっと聞きたかった。
 それでも、引きとめることはできないと化野を諦めさせるものが、ギンコの声の中にはあった。
「……必ずまた来いよ。俺も医者になって、お前の眼を診られるくらいの腕にはなっておくから」
「……うん。風呂場の蟲が悪い奴になってないか心配だし、大楠の蟲にはまた会いたいし」
 素直ではない物言いにももう慣れた。
 海辺で、ギンコは初めて化野に蟲の姿を描いて見せた。砂の上に描かれた奇妙な姿は、打ち寄せる波に洗われてすぐに消えた。


 家に戻ると、別れの宴の支度が始まっていた。ギンコ同様、すぐに発つという蟲師を説得してどうにかあとひと晩と引き延ばしたらしい。
 書生たちも、漁師も顔を見せて賑やかな宴になった。蟲師は滞在中に村でも仕事をし、漁師たちと馴染になっていたようだ。
 酒がすすみ、いささか下品な余興も混じり始めたあたりで座敷を追い出された化野は、ギンコの姿を探して庭に降りた。
 ギンコは大楠の梢を見上げていた。ひときわ濃い蟲払いの香の香りが立ちこめていた。
「蟲の機嫌はどうだ」
 声をかけると碧の眼がこちらを向く。
「少し騒がしい。いつもより蟲の数が増えているから、影響が出ているんだろう」
 並んで立ち、暗い葉群を見上げても、化野にはやはり何も見えなかった。
作品名:をさなごころ 作家名:みもり