ローリンガール
それは単純に夏の暑さのせいか、それとも正論を言われた事による苛立ちか。
こめかみから、一筋の汗が流れた。
ベッドのシーツにしみこみ、円形の跡を残す。
「ねぇ…。」
「ん?」
「息って、どうやったら止められるのかな?」
言った後に、しまった、と嫌な汗が流れた。
何を聞いているんだ、私は。
よりによって、こんな奴に訳の分からない事を聞くなんて。
「…どうした、お前。」
当然の反応だ。
だが、このピンと張った空気を解す方法を私は知っている。
「冗談よ。」
全て嘘にしてしまえばいい。
「……。」
明人が珍しく黙り込んでいる。
可笑しいな、上手くいくと思ったのに。
「お前――」
…何て返ってくるだろう。
自然と心臓が早く稼動する。
「腹でも下したか?」
「帰れ。」
外の蝉が、やけに騒がしく鳴いていた。
緊張した私が馬鹿だった。
でも。
いつの間にか息は止まって少し吸えるようになっていた。
柔らかくなった空気に安堵して明人を見上げれば。
優しく笑っている明人がいた。
そんな表情の明人を見るのは初めてで少し驚く。
「未来」
そんなときに名前を突然呼ばれる。
視線で何?と問いかければ、すっと私の目に明人の手が被さった。
暖かくて、優しいそれに溢れそうになるものがあった。
そんな私を見越してか明人の声が耳に入る。
「お前は頑張りすぎなんだよ、少し休め。それくらいいいだろう?」
優しすぎる言葉、声。
甘えそうになる、だけど――。
「…だめなの、まだ先が見えないから。もう少し頑張りたい。自分のことが分かるまで…」
弱々しい声で返せば呆れたような困ったような声で明人が頷いたような気配がした。
ありがとう――。
そう呟いて、私は眠りに落ちた。
『もういいかい?まだですよ。まだまだ先は見えないので、息を止めるの。今。』
「未来、未来ッ!」
「ん? んん…」
目を覚ませば、そこにはお母さんの姿。
ぼやけた頭で辺りを見渡せば、明人の姿は何処にもなかった。
「明人は…?」
「帰ったわよ。
なんか“今、未来寝ているんでそっとしておいて上げてください。
勉強に疲れたみたいで“とか言って。
明人君に気を使わせたんじゃないの?」
「……。」
なんだ、あいつ帰ったのか。
明人の事だから顔に落書きでもして帰ったのかと思ったけど、そうでもないらしい。
なんか、あいつらしくな――
……。
「お母さん」
「何?」
「私の机の上に置いてあった“大人のたけのこの里”何処行った?」
「へ? 知らないけど」
「あいつ、私の楽しみにしていたお菓子持って行ったな!
“大人の”だから、普通のより高いのに!」
「あー、あの嵐の子がCMしているアレよね、お母さんも食べたかったわー。
あなた、そう言うのつまみ食いしているからニキビとか出来るのよ、素直にお母さんにくれればいいのに」
「そう言うからお母さんだってブクブク太るんでしょー!」
他愛もないお母さんとの会話。
なんだろう。
私が眠りにつく前の心のもやもやがすぅと消えていくようで。
お菓子持って行かれたのはムカつくけど、少し、ほんの少しだけ明人に感謝かな。
その後、胸につっかえるものもなく机に向かうことが出来た。
これで、学校の友達に嘘を付くことはない。
それが妙に嬉しくて。
気が付いたら、深夜までずっと勉強をしていた。
私は大きく伸びをした後、歯磨きをしようと一階への階段を下っていく。
…あれ。
一階の居間の電気が付いている?
こっそり居間の扉を開けると、お母さんとお父さんが2人机に向かい合って座っていた。
「あの子、私立の高校行きたいのかしら?
お金かかるわね…」
「前期だけで100万はくだらないだろうな。
けど、あいつの行きたい学校には行かせてやりたい」
どくりと心臓が鳴るのを感じた。
お父さんとお母さん、私の話をしている。
そうか、本当にそういう時期なんだな。
つまり、それは私に期待をされていると言う意味で。
同時に“失敗は許されない”と言われているようなものだった。
私が仮にも市立の高校入って、“失敗”でもしたものなら。
それは多額のお金を溝に捨てるようなことと同じような訳で――。
私は息を殺すように何も物音を立てないまま静かに扉を閉め、用事を済ませて1階に戻った。
二階に戻った私はズルズルと座り込んで自身を抱きしめる。
どこまでも私を追い詰める“期待”。
その“期待”に押しつぶされてしまいそう。
何をしても誰かの期待がついてまわる。
怖い、怖い。
コワイ――…。
周りの目が怖い。
周りの期待が怖い。
全てが私を縛り付ける。
もがけばもがくほど絡みついてさらに苦しくなる悪循環。
誰も助けてはくれない。
なんで私ばかりこんな思いをしなければならないのか。
全部全部、消エテシマエバイイノニ――。
「……っ!!」
そこまで考えてはっとする。
私は今、なにを考えたのだろうか。
自分の考えたことが恐ろしすぎて吐き気がした。
どす黒い感情に飲み込まれてしまいそうな感覚にふらふらと意識が持っていかれる。
あぁ…。
なにもかもうまくいかない…。
いつになったら私は。
手を伸ばした先、私の望む先に行くのだろうか。
明日になれば全部うまくいけばいいのに。
そんな願いを込めて、涙が頬を伝って落ちた。
『ローリンガールの成れの果て 届かない、向こうの色』
長い長い夜は明け、外から暖かい日差しが漏れてくる。
私は朝が来たのと察すると同時に、なんとも言えない虚無感に襲われた。
全てのことに罪悪感を感じる、そんな気持ち。
咲と詩織に今日はどんなことを話そう。
毎日なら楽しみに感じることも、なんだか今日は億劫で。
私は鉛のように重い体をゆっくりと起こした。
なんだろう、頭が重くて意識が朦朧とする。
風邪かと思って額に手を当ててみるも、いつも通りの温度だった。
「起きなきゃ―」
私は心の中で思っていたことをわざと口に出した。
ベッドから立ち上がった時軽くめまいがした気がしたが、私は静かに階段を降りていった。
「あら、未来、おはよう」
「おはよう」
「おはよう、お父さん、お母さん」
私はふにゃりとした笑みを浮かべ、静かに椅子に座る。
目の前には、お母さんの作ってくれたスクランブルエッグといい狐色にトーストされた食パン二切れ。
食欲はなかったが、お母さんの料理を何事もないように口に運ぶ。
「未来、勉強は順調か?」
「うーん、そこそこかな」
お父さんの何気ない発言に心臓が跳ねる。
私はいつの間にか笑顔の仮面をつけることを覚えたようで、何もないように作り物の笑顔を浮かべることが出来た。
「未来は明人君と同じ高校に行くの?」
「うーん、私の学力で行けるかな?」
母の言葉に私は感情の感じられない無機質な声で答えた。
その裏には、微量の不安を混ぜながら。
明人が行っている学校は中々の名門校だ。
評判も良いようで、親はその学校を薦めてくる。
「何、未来なら大丈夫さ。 勉強、頑張っているだろう?」
「えー、咲とか詩織のほうが頑張ってるって」
「じゃあ、未来はもっと頑張らなくちゃね?」
母と父のさりげない発言に、私は作り笑顔を作るしかなかった。