いおの祝言
――あの蟲の子に会いに行くか。
ギンコの問いに、いおははっと目を瞠った。
「蟲にも……子が、あるの」
「ある。山の中を、浮上しながら海を目指していたのを憶えているだろう。あれは子孫を残すためだ」
ああ、と歎息のような声を漏らしたいおの表情に、懐かしむような色が浮かぶ。
「行きたい。……会えば、わかると思う」
いおは、一時はあの沼の一部だった。蟲に取り込まれる感覚を、まだ憶えているはずだ。だから蟲と一緒に海に溶ける夢を見るのだ。
「連れて行って」
ギンコは頷いて、潮を見た。
「今のおまえに憑いているのは、蟲ではなくて蟲のまぼろしじゃないかとおれは思う。そんな状態で、普通には連れて行けない。……だから、潮も一緒に行く」
いおは、蟲と一緒に地中を潜って来たから、蟲が辿った道筋をはっきりとは知らない。
自分で歩いて道を覚えれば、まぼろしに曳かれてふらふらと山中へ迷い入り兼ねない。それを避けるために、いおには目隠しをし、潮が沼まで背負ってゆく。
それが、蟲の子に会いに行く条件だ。
「でも、漁は休めないし……大丈夫、自分で行ける」
「いや」
潮はぐいといおの腕を引いた。
「一緒に行く。漁のことは、網元に頼んでなんとかする」
「だめ、私のために」
「もう決めた」
「だめよ」
いおは何度も小さな声で繰り返していたが、潮はきっぱりと唇を結んだまま、握った腕を放さなかった。
自分も行きたいと未練たらたらの化野を残して、三人で山に入った。
ギンコは商売道具の木箱を背負い。
潮は目隠しをしたいおを載せた背負子を背負う。
山道はそれほど険しくはないし、潮は大柄で、いおは年頃の割に小柄だ。それでも、人ひとり背負って登るのはかなりの負担だ。
ギンコは、いつもの一人歩きよりもかなり緩い歩調をとり、何度も休憩を挟んだ。
「私、歩けるから」
背負われていても潮の荒い息や、背に滲む汗は伝わってくる。泣きそうな声でいおは何度もそう言ったが、潮は頷かなかった。もちろん、ギンコも。
夜になっても、淡いともし火を頼りに歩みは止めない。目隠し越しにも周囲の暗さはわかる。いおは背負われたままもがいた。
「どうして休まないの。もう暗いでしょう、空気でわかる」
潮は息が荒い。答えられない。
「おまえを降ろせない」
「どうして。目隠しは取らない、独りでどこかに行ったりもしない! おかしなことはしないから、止まって、休んで」
だいじょうぶ、と掠れた息のような声で潮は答える。
「大丈夫じゃないでしょう、そんな声で」
癇癪を起こしたいおに応じたわけではないだろうが、ギンコが足を止めた。
「どう……した」
息を整えようと立ち木に縋ったか、潮の体が傾ぐ。いおは慌てて身を強張らせる。
「……関守石だ」
ギンコがともし火をかざすと、淡い橙の光の中に、十字に草葉を結いつけた丸い小石が浮かび上がった。
細い山道の真ん中、落ち葉を払い丁寧に据えたように置かれている。
「……何」
「これより先には行くなという印だ」
「誰が?」
いおも覆われた目を凝らすようにする。
「……さあな。入ってほしくない誰かがいるんだろう」
二日前にはなかったぞ、と呟きながら、ギンコはごとりと木箱を下ろした。
「行き止まりじゃあしょうがない。今日はここまでだ。道の上で野宿だな」
ほ、と潮の体が弛緩したのが、いおにもわかった。
潮といおの手首を紐でしっかりと結び合わせてやっと、地面に足をつけてよいとギンコは許しを出した。
一日、ぶらぶらと揺られるだけだった脛が浮腫んでいる。慣れない気持ち悪さにいおがせっせと脚を揉んでいると、大きな掌が触れた。
「疲れたろう」
あたたかい大きな手が何度も脛をさする。
「私なんかより」
手探りに触れたきものはじっとりと汗に濡れている。せめて顔を拭おうと袂をたぐったが、潮はやんわりと拒んだ。
冷えた握り飯と茶で簡単な食事を済ませると、ギンコは寝ろと二人に言った。
少し離れた場所で、ギンコは火を起こしているらしい。目隠しをしていてもほんのりと明るさと熱、ものの燃える匂いはわかる。
潮は夜露からいおを庇うように横たわり、すぐに浅い鼾をかきはじめた。
――冷えないだろうか。
晩春とはいえ、山中だ。汗をかいたまま着替えもできなかった。そろりと身じろぎをすると、唸るような声が潮の口から漏れた。
「……寒いか」
微かな足音と一緒にギンコの声が近づいてくる。二人の体を覆うように何か布をかけ、潮の背のほうへ去った。暫くして、そちらからもふわりと火の気配が立った。
「……眠らないの」
「ああ、少しずつ眠ってる」
ひと晩程度は慣れている、と応えてギンコは元の火の側へ戻っていった。
翌朝。握り飯の食事を済ませると三人は登ってきた道を戻った。
「別の道がある。そっちから回ろう」
昨日の疲れが抜けきらないままの重労働に、潮の脚は重い。ギンコは先を急かさず、一行はのろのろと進む。
「……あ」
先に声を上げたのは潮だった。
「ここにも、関守石……」
いおは焦れた。
「道なりに歩かないといけない訳はないでしょう、沼の場所がわかるのなら、道を外れてでもまっすぐ……」
言いさして口ごもる。それなりに整えられているはずの山道でも、潮はこれだけ辛いのだ。
「……そう、しようか」
荒れた息のまま、潮はギンコの意見を伺うように問う。
「私も歩く」
「それは駄目だ」
即答で遮ると、ギンコはふうと息を吐いた。
「……もう一つ迂回路はあるが、この調子だと、おそらくそっちも塞がれてるな」
「……誰が、何故」
「蟲の沼があるのを知った人が、危険を知らせようとして?」
かさかさと落葉が鳴る。
「……沼が警告しているのかもしれない」
「沼が?」
いおと潮の声が重なった。
「二日前に、おれが独りで訪ねたときには石はなかった。おまえが来ようとしているのに気づいて、来るなと沼が言っているのかもしれん。が、沼とは関係なしに何かあるのかもしれん。地滑りか、野獣か」
ギンコの逡巡はそう長くはなかった。
「……少しここで休んでいろ。様子を見てくる」
潮の疲労を慮ってのことに違いない。かさかさと微かな足音が遠ざかるのを聞き送り、いおは背中から潮に声をかけた。
「立ってないで、座ろう」
「……いや」
「変なことはしないから。座ったほうが楽でしょう、降ろして」
「駄目だ。約束だ」
いおは苦笑混じりの溜息をついた。この男は、見かけも中身も巌のように固く、揺るがないのだ。
「じゃあ、昨日の夜のように手首を結んで。それなら独りでどこかに行ったりできないでしょう?」
さんざん口説いて、ようやく潮は背負子を降ろした。道の脇の木の幹に凭れるように座らせて、いおはせっせと潮の脚をさすった。
「……汚れるぞ」
「いいの、昨日のお礼」
潮が照れ臭そうに笑うのがわかった。
見なくてもわかる。この無骨な男が、いつも自分を気がかりそうに見つめているのに、いおはかなり前から気づいていた。
初めは、奇怪な流れ者が珍しいだけだと受け流していたが、潮の控えめなふるまいにこもった、素朴な暖かさを無視し続けることは難しかった。