いおの祝言
「……まだまだだな。体には自信があったんだが」
「こう見えて結構重たいのよ」
「いおはよく食うからな」
もう、と軽く膝を打った手をやんわり握られた。
「……もっと食え。魚いっぱい取ってくる。貝でも章魚でも、食いたいものはなんでも」
「そんなに食べたら、ほんとに背負えなくなっちゃう」
「そんなことはないさ」
握った手を引き寄せられた。汗の匂いの胸に抱きこまれて、いおは慌てた。ふだんはこんなことをする男ではない。
「おまえがどんなに重くなっても、わしがちゃんと背負っていく。だからなにも心配はいらない」
息が詰まるほど抱き締められた。
「……じゃあねえ、さざえ。海老」
「ああ。でっかいの取ってこよう」
「鯛、河豚、うつぼ」
「うん」
「鯨!」
鯨かあ、と潮は笑い声をあげた。
海の潮に似た香を胸いっぱいに吸い込んで、いおは潮の大きな背を抱き返した。
ふと、顔を上げる。
いおの髪をそっと撫でていた潮の手が止まっていた。
「潮」
小さな声で呼んでみたが、返事はない。恐る恐る目隠しをずらして見ると、潮は木に背を預けたまま、小さく口を開けて寝入っていた。
目を覚まさせないように、なるべく静かに手首をつなぐ紐を解く。
そろそろと身を離す。
自分の足で立ち上がると、いおは海の方向を見やった。
沼に連れられて海を目指した道筋を、確かにいおは覚えていない。が、沼が地上に足を止めたとき、木の間越しに見た風景ならば覚えている。
今、眼下に見える景色にも淡い覚えがあった。
ギンコは、関守石を越えてこの道を行ったはずだ。
いおはちらりと潮の寝顔を振り返った。
――昼間だし、危険な獣は出ないだろうけど。
振り切るように頭を振ると、小さな石を跨ぎ越して山道を急いだ。
沼は、二日前と同じ場所にまだあった。
「よう」
誰にともなく挨拶のような声をかけ、ギンコは湿った草の上に木箱を下ろす。
いおと別れてから、障害物には一度も出会わなかった。
「……やはり、おまえか」
もちろん沼が答えるわけもない。
慎重に水際に歩み寄る。水に洗われる草は色が抜け、寒天のように薄く透けている。確かにここには、あの沼の――水蠱の子孫がいる。
木箱の中から空の薬瓶を抜き出し、うす緑の水を汲む。
これを見て、いおは納得するだろうか。
少なくとも、あの場で足止めされてそのまま引き返すよりはましだろう。水は珍品好きの医者にもいい土産になる。ただし、渡すのは極少量。万が一にも事故のないように……
熟熟と考えていたギンコは、対岸の草を揺らす気配にはっと身構えた。
がさがさと騒がしい音をたてて現れたのは獣ではなく、
「いお!」
何故、とも止まれとも言う間はなかった。
下生えの中を無理に突っ切ってきたのだろう、日焼けした手足のあちこちを擦り傷だらけにして、いおは沼を見つめた。水際の、透けた葉を見た。
ああ、と溜息のような声がギンコにも聞こえた。汗に濡れた黒い髪を張り付かせた顔がくしゃくしゃに歪んだ。
その顔に浮かぶ表情は、恐怖ではない。嫌悪でもない。
久しく離れていた同胞に巡りあったような懐かしさを満面に浮かべて、いおは沼に踏み込んだ。
「いお、止せ」
きものの裾がみるみる濡れる。膝のあたりまで水に浸ると、いおはちらりとギンコに目を向け、微笑のような表情を浮かべて、
ざぶん。
緑を帯びた水面に、長い黒髪が一瞬広がった。
「いお!」
靴を脱ぎ散らし、同じように水に潜ろうとしたものの、ギンコの中の何かが強く警告を発した。
「出てこい、いお!」
水底をぬるりと魚のように滑る人型が見える。見失わぬよう目を据えたまま、ギンコは沼の岸辺を走る。濡れて不安定な地面のせいで、足が縺れる。
と、いおが現れたのと同じあたりから、ぬうと大きな姿が覗いた。潮だ。
息を切らしている。手首に紐をぶら下げ、背負子はどこに置いてきたのか。
「なぜいおを降ろした!」
ギンコの声と、視線の先の気配を見て、潮はいおがどうなったかを察したらしい。
いきなり頭から水に入った。
「……えい」
忌々しげに頭を振ると、ギンコもざぶざぶと沼に踏み込んだ。