いおの祝言
「そりゃあ災難だ」
暢気に呟く化野に、ギンコはちぃと舌を打ち、ぷかりと煙の輪を吐く。
水に浸った一張羅が海風を受けて軒先にはためく。乾くのを待つ間は、化野からの借り着ですませるしかない。
「それで、いおは」
「大事はないさ」
細く煙を吐きながら、屋根を覆うほどの大楠の葉群を見やる。化野やギンコが子供のころからそこにある古木には、昔と変わらぬ蟲が住み着いている。
「水は飲んでいない。潮のほうが少し飲んでしまったようだが、影響の出るほどじゃない」
「おまえは?」
ふん、と鼻を鳴らしながら、ギンコは借り着の襟を掻きあわせる。着慣れないせいか、きものの前がすぐに緩む。
「おれは蟲師だぞ。正体が解っていて、そんなへまをやるかよ」
それもそうだと化野は屈託なく笑った。
「それにしても、見たいもんだな。あのばかでかい奴の子か。せっかく訪ねたなら、少し汲んでくればいいものを」
ギンコは露骨に眉を顰めた。
「そんな危ないことができるか。おまえのことだ、うっかり流しちまうだろう。井戸にでも棲まれて、知らずに飲み続けてみろ。おまえが蟲に喰われるぞ」
「俺はそこまで信用がないか」
「ないな」
容赦ない。
「他はともかく、蟲に関してはおまえにまったく信用はない」
酷い、とぼやく化野の肩先に、小さな蟲が集っている。ギンコはふうと煙を噴いてそれを散らし、
「そんなことより、座敷の整理を頑張れよ。祝宴はここでやるんだろ」
「ああ、いおが落ち着いたらな」
化野はよっこらしょうと爺むさい声をかけて立ち上がった。
「仲人は網元に頼むのが筋だろうな。料理は女衆に頼んで……ああ、膳の数が足りない」
煙草を消し、ギンコは化野と視線を合わせないよう、大楠を見上げた。
「おれは暫くここを離れよう」
「なんだ、仕事か? まさか宴に出ないつもりじゃなかろうな、いおが許さんぞ」
そうは言わない、と苦笑して
「蟲が寄っている。少し散らさないと」
ああ、とギンコの視線を追うように化野も古木を見上げた。
「忙しいのに、手伝えなくて悪いな」
「なに、人手は幾らもあるさ」
いおの具合を見てこよう、と化野は庭に背を向けた。
「ああ、食い物はいるだけ勝手に持って行け」
「いつもすまん」
いやいや礼などいりませんよ、と背を向けたまま化野はお道化る。
ギンコの出立を見送るのが厭なのだ。
いおは、奥の小部屋をあてがわれていた。
「具合はどうだ」
仕事の合間を縫って、潮が顔を見せにくる。
「大丈夫。もう海にも出られる」
「無理はするな」
「大丈夫よ、ほんとに」
草や枝で切った手足の傷のほかは、大きな外傷はない。ただ、柱が一本抜けてしまったように、体のどこかがぐらぐらと頼りない。
「私よりも、潮は……」
「わしも何ともない。化野先生にも、蟲師の先生にも診てもらった」
大儀そうに半身を起こすいおを、潮はそっと支えた。
「……どうして、あんな無茶をするの」
違う、無茶をしたのは自分のほうだとわかりながら、いおは尋ねた。
「……おまえが行ってしまうと思ったから」
漁に荒れた手が、いおの手を握る。
「また透き通って、わしの手の届かないところへ行く気だと思った」
「そうじゃないの」
宥めるようにいおは潮の手を握り返す。
「……私は、ほんとうの人間ではないのじゃないかと、ずっと考えていた」
「人間だろう。あたたかい、脈もある」
いおはゆっくり頭を振る。
「蟲にも、脈はあるし、あたたかいの」
自分の望んだのではない死を強いられ、村のため、誉れと言われ、逃げることもできず。
どうしようもなく追い詰められたいおを、あの沼は包み込んでくれた。生きていていいと言ってくれた。
沼に抱かれているあいだ、いおの心はあたたかだった。沼とともに死んでもよいと思うほどに、沼に感謝していた。沼が好きだった。
「……ほんとうの人間じゃないのなら、潮と一緒にはなれない。潮は人間だから」
人と蟲とは、最後のところで溶けあえない。
「私がどんなに潮を好きでも、潮を幸せにしてあげられないから」
潮は、いおの小さな手を両手に包み込んでゆっくりと頭を振った。
「もしもおまえが、人ではなくても、わしは構わん」
「だって」
反論を封じるように、手を握る指に力がこもる。
「わしは、浜に上がったおまえを見たよ。透き通って、柔らかくて、こんなに綺麗なものがこの世にあるかと思った」
「……うそ。気味悪いでしょう」
嘘じゃない、と潮は頭を振る。
「……漁の暮らしは、楽じゃない。髪も手も荒れるし、肌も灼ける。……おまえが、あの姿に戻りたいなら」
いおはぎくりと顔を上げた。
「わしも、一緒になろう」
小さく震えるいおの身体を、潮はそっと包み込むように胸に引き寄せた。
「あの沼の場所は覚えている。あれに浸っていれば、透き通るのか」
一緒に行くか、と問われて反射的に答えた。
「だめよ」
「浸るだけではだめか」
「そうじゃなくて」
いおは焦れる。
「透き通らなくてもいいの。このままでいい」
でも、と潮の声には困惑がにじむ。
「だったら、なぜ沼に入った」
「……懐かしくて」
消え入るような声で、いおは答えた。
「たしかにあの沼の子だとわかったの。そうしたらもう、懐かしくて……たまらなく懐かしくて、抱きしめてほしかった」
いおは親の沼に抱かれた。子の沼をいわば同胞のように感じていた。
「……でも、沼はそうじゃなかった」
子の沼は、親のようにはいおを抱擁してくれなかった。髪の先まで水に浸っても、いおは沼にとっては異物でしかなかった。
「……私は、やっぱり人間なんだろうと思う」
ああそうだ、と潮は応えた。
「だから……人間の幸せを、望んでもいいんだと思う」
その通りだ、と潮はいおの頭を抱いた。
そうされるのはとても安心で、涙が出た。
親の沼に取り込まれたときのような、絶対的な安心ではない。あちこち隙間だらけで、かみ合わなくて、すうすう寒い。それでもいおは、しあわせだ、と思った。
宴は、初夏に催された。
葉桜がすっかり新緑に置き換わる。海風は夏の気配をたっぷりと運んでくる。
雑多な蒐集物を片付けた化野宅の表座敷が主宴の場である。客は座敷に入りきれず、庭先に茣蓙を敷いてそこにも席が設けられている。
ギンコは、いつの間にかその中に紛れ込んでいた。
「おや、何時来た」
名士然とした紋付袴姿の化野は、ギンコを見つけると足袋はだしのまま庭に降りてきた。
「こらこら、家主が座を離れるか」
「構うものか。ここまで来ればもう席も何も」
化野自身も酔っている。
杯を受けながら、年代物のくすんだ金屏風の前に並んだ若夫婦をギンコは見やった。
「花嫁衣裳は、あれになったか」
「ああ。母の形見でよければ、白無垢を貸そうと言ったんだがな」
「いや、あのほうがいおらしい」
それもそうか、と化野は笑う。
花嫁は、色の褪せたきものを着ていた。
大柄の花模様を散らした生地は決して上等とは言えず、水にさらされて赤の色も褪せている。
それは、蟲に取り込まれてこの浜に流れ着いたとき、いおが着ていたものだった。
そのことを宴に集う者は皆知っている。