抱け、彼の背
戦は無事に浅井軍の勝利で終わり、浅井の人々は勝利の美酒に酔いしれた。
兵たちは最前線で戦い大将首をもぎとった長政と、
最後まで長政に付き従いながら傷一つ負わなかった市を讃えた。
大広間で行われる勝利の宴。
その賑やかな雰囲気を避けるように、長政は広間を後にする。
薄暗い縁側に一人佇む長政。
広間の賑わいは遠く、秋風が心地良い。
なんともなしに庭を見つめながら、考えるのは今日の戦。戦場で見た、己が嫁の姿。
ほんの一瞬の出来事だったが、目の錯覚ではあり得ない。広がる深淵、彷徨いでる暗き怨念。まるで黄泉の誘いのようなそれを身の内に宿す…魔の妹。
政略的には必要なことだったとは言え、魔王の血を浅井に引き入れることが正しかったのか。あの姿を見た今、間違いはないと確信していた思いが、揺らぐ。
(私は…どうすれば…)
長政が額に手を当てた時だった。
…ひたっ
冷たいものが長政の腕に触れた。
背筋を走る悪寒。死を思わせるその冷たさ。
長政は反射的にそれを振り払った。
「きゃっ」
上がる小さな悲鳴。振り向いた長政を見つめる、黒く大きな瞳。
「……長政…さま?」
市は振り払われた手をぎゅっと握る。長政は明らかに、しまった!という表情をした。
彼は表情で嘘がつけるほど器用ではない。
「市…!これは、だな。その…。」
どうにか言葉で繕おうとするものの、良い言葉が出てこない。
市の手だと気づかなかったことが言い訳にならないことは自分が一番分かっている。
あの瞬間感じたものは紛れもない恐怖だった。
「長政様…市を嫌いになった…?」
潤んだ瞳で見つめられ、長政は言葉につまる。
自分が彼女を嫌いになることなどありはしない。その事実に長政は確信を持っている。
だが、恐ろしい。
恐怖が、長政の言葉を奪う。
答えられない長政を見て、市は儚く笑う。身を竦ませている長政の心痛を慮るように。
「いいの。長政様のせいじゃないわ。
これもきっと市のせい…。きっと市がまた、何かしてしまったんでしょう?」
違う。
嘘っぱちの否定の言葉が零れ出るより先に、
市が。また。その言葉が長政の脳内で明滅する。瞬間、考えるより先に体が動いていた。市の細い腕を掴んで、長政は手近な部屋へ連れ込む。
掴んだ腕はやはり冷たかったが、もう気にならなかった。
邸内の兵達は皆宴会に行っている。二人が入った部屋にも当然誰もいない。
部屋の中央まで来ると、長政は市の手を離す。
「座れ。」
長政はそう言ってから、何か思いついたらしく辺りを見回す。
部屋の片隅から座布団をとってくると、市の前に置いた。
「座れ。」
市は座布団と、その正面に座る長政を交互に、おろおろと見る。
「どうした、市。座れと言ったのが聞こえぬのか。」
「長政様…。おざぶ…。」
「えぇいっ!かまわん!そのようなくだらぬことを気にするな!座れと言ったら座れ!」
そう言ってばしばしと畳を叩く長政。
その畳を叩く音に怯えながら、市は座布団の上に正座する。
「話せ。」
座った市を真っ直ぐに見据えて長政は言った。
「…………何を?」
市は首を傾げ、心底不思議そうに尋ねる。
「さっき、『また』と言ったな?」
何の話か分かったらしく、市は居づらそうに身を縮ませ目を伏せる。
「どういうことなんだ、市。お前の知っていることを全て話せ。」
「けど…。」
躊躇いの声。話しても無駄だという諦めが声に滲む。
そしてその諦めは短気な長政を刺激するのに十分なものだった。
「市!私が話せといっているのだ、話せ!」
思わず声を荒げる長政。市がびくっと体を震わせるのを見て、後悔するが後の祭り。
市は、ごめんなさい。と小さく呟くと躊躇いがちに口を開いた。